『大コメ騒動』感想メモ
戒厳令下、いや緊急事態宣言下のなか、果敢に観に行ったので感想をメモしておく。
緊急事態宣言つったって映画館は営業しているわけで、観るべきものは観なければならない。
あらすじ
大正時代の日本。
富山県の港町・魚津。
漁師の妻である“かか”(おっかあ)たちは急激な米の値上がりに断固反対して徒党を組んだのだった。
「女に何ができる」と思われながらも戦ったその運動は全国にも広がりを見せたり、見せなかったり。
老獪な米屋の懐柔策などもあって、“米騒動”は頓挫する。
それでも主人公のいと(井上真央)は諦めず、とある出来事をきっかけにかかたちは再びにまとまり立ち上がるのだった。
感想
方言の音楽性と標準語の無味乾燥さというのは以前から感じていたことだったけど、映画を観てなおさらそう思った。
全編ほぼ富山弁で撮影されていて、その発音や表現にはところどころ「ん?」と思うけど(言葉尻だけ変えてても全体の発音が富山弁ではなかったりする)、本木克英監督ほか立川志の輔や柴田理恵ら出演陣に富山出身者が多く、高いクオリティーでの演技になっている。
中でも出色なのがやはり富山県出身の室井滋演じる“清んさのおばば”で、この室井滋が歌うようにがなりたてる富山弁は途切れがなく、感情に沿ってぴったりとした波を描いてダイレクトに胸を打つ(富山弁話者に限る効果かもしれない)。
明治時代にいわば人工的に制定された標準語と異なり、方言というのは人間の生の感情があらわれている。
文語と口語の違いと言ってもいいかもしれない。
とにかく室井滋の怪演が映画のひとつの見所になっている。
物語についてちょっと思うのは、歴史的事実にもっと大胆に脚色してよかったんじゃないかなあ。史実に縛られたのかなあ、ということ。
悲惨な事故をクライマックスの美談に仕立て上げた『クールランニング』くらいやっちゃってよかったのでは。
途中の内ゲバ展開も爽快感に欠けて、中盤はダレてしまった(序盤と終盤はよかった)。
同じく富山県出身監督による富山県を舞台にした映画『剱岳 点の記』は全体の作風がシリアスで、撮影方法もドキュメンタリーに近い手法が取られたということで、史実から逸脱しない、フィクションとしてはがっかりなエンディングも映画に合っていた。
だけどこの映画の場合、当時の人間関係を始め、事件の概要以外はフィクションを多く含んでいるし、悪役をあれだけ絵に書いたような意地の悪い奴に描いておいて、それに対する報復のシーンがなかったのも消化不良。被ストレスに対する解放がもうひとつ欲しかった。
もっともっともっと!エンタメ・エンタメ・エンタメ!!
って、しちゃってよかったんじゃないかなあ。題名を『米騒動』じゃなくて『大コメ騒動』と銘打ったのであれば。
まだアクセル踏めるでしょう。もっと振り切れたものを期待してしまった。
「いや~、実は最近、当時の米騒動当事者の日記が発掘されまして、映画の脚本これがまるっきり史実なのですよ。再現ドキュメンタリーなのですよ」って言われたら、それはそれですげえなってなるけど。さすがにそういうわけでもないだろうし。
葛藤があったのかな
『ジョーカー』も『パラサイト 半地下の住人』も、近年話題になる映画は格差(社会)を大きく扱う物が多いけど、そういう意味では大正時代なんて現代よりとんでもなく格差社会なわけで、この映画もそういう見方をできなくはない。
だけど上記2作品は「下層社会民が上級国民を下剋上してやったあ!」という内容ではなくて、悲劇的な結末にすることでなんというか空しさを増幅させている。
けれど俺が観たいのは「小が大に勝ってやったあ!」なんだよ! 貧乏人のごまめの歯ぎしりから始まった「米よこせ」の火種が当時最先端メディアの新聞の力に煽られて日本全国に飛び火して、あれよあれよという間に寺内内閣総辞職、日本初の政党内閣である原敬内閣爆誕っていうダイナミックな歴史の綾みたいなところを、おもしろおかしく観たかったなあというのが本音ですね。娯楽映画としてはね。
だからその、史実としての米騒動(やってる当人たちは倒閣運動なんて思っていなくて、ただただ米をそれまで通りの価格で売ってほしかっただけじゃい、というシーンがでてくる)の部分とか、『ジョーカー』『パラサイト』ラインの「安易に貧乏人下剋上スカッとストーリーにはしねえんだぞ、それが現代映画界の風潮なのだぞチミチミ」という気持ちがエンタメに振り切らせるのをためらわせたんじゃないかなあ。
(たぶん)ノリだけで主題歌を米米CLUBにオファー出しちゃう悪ノリ感をもっと本編にも活かしてもよかったのではないか。
そんな感想。