『シン・エヴァンゲリオン劇場版:ll』感想
『エヴァンゲリオン』完結作品、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観た。
公開初日の朝7:00の回で観た。
6時半ごろに劇場に着く。
劇場は満席。
映画館は、朝6時とは思えない人いきれで、みんなそれぞれが異様な熱気を持っている。
待っていた。
待ち構えていた。
この日が来ることを待ち続けていた人々が集っている。
(もちろん俺もそのひとりだ)
熱もこもろうというものだ。
その感想を書く。
観た直後は、感想を書こうにもどこから手を付けていいかわからなくて、1週間後にもう1回観た。
少し落ち着いて書くことができるようになったので、感想をまとめておく。
本当は約2時間半の映画すべてのシーンに思うことや感じることがあったし、そもそもエヴァンゲリオンという20年以上にわたる体験をすべて書きたいところなのだけど、それは書くにも読むにもとてつもない時間がかかるだろうから、映画の感想だけに絞って書く。
まえがき終わり。
そんなにネタバレはしてないけどちょっとしている。乞御注意。
それは『エヴァンゲリオン新劇場版:卒』なのだった
「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」つって、できるわけないだろそんなこと!
25年間散々謎、謎、謎、で引っ張ってきておいて、1本の映画で全部を解決してスッキリ終われるわけないだろ! いい加減にしろ!
終われた。
ビックリ。
シン・エヴァンゲリオン劇場版。
ふたことで言うなら“エヴァの呪いを解き、エヴァファンの25年を成仏させるエヴァ”
劇中、独り言や説明セリフの多さを感じるけど、これはいままでの『エヴァ』になかったことだ。
設定の説明をするというのは野暮で、言わぬが花で、「そこを考察して楽しんでくれ」というのが製作者のスタンスだったはずだ。
だからこそ人を惹き付けたし、エヴァファンは何年経っても「人類補完計画が~」、「サードインパクトが~」と、エヴァのことしか考えられない“エヴァの呪い”に掛かっていた。
本作はそんなエヴァの呪いを解く1本。
26年目にして庵野秀明が唱えたシャナク。
庵野秀明によるエヴァンゲリオン卒業式で、“序破急”にちなんだ題名を勝手につけるならこれは『エヴァンゲリオン新劇場版:卒』だ。
物語は旧劇場版と同じことをやっているし、言っている。
ゲンドウを中心とした人類補完計画。
それを固辞する息子シンジ(父と子の対立)。
しかし、その過程でゲンドウの目的や思いが赤裸々に語られることはなかった。それを言うのは手品のタネを明かすようなもので、野暮なことだったから。
だけど『シン・エヴァ』では全てを説明している。
ゲンドウの目的、人類補完計画とは、『Q』のときアスカはなぜ怒っていたのか、カヲルくんはなぜ渚なのか、綾波の感情、シンジの激情。
はっきり言って説明ゼリフが多い。これは作劇上言い過ぎ、説明し過ぎで野暮なことだと感じるセリフが多々ある。
だけどエヴァンゲリオンを卒業するにはそれが必要だった。
それを言っちゃあ野暮だけど、
野暮をやりきった潔さがある。
庵野監督は「エヴァは絵だ。現実に帰れ」という直截的なメッセージを
旧劇場版では試写会の観客を映すという手法で表現した。
あるいは炎上するネット掲示板。
いわば作品の外側から作品を暴こうとした。
お前たちはこんなにもみっともない(と言っているように見える)。
(本当は「お前たちが愛おしい」という感情で映したのかもしれない。いやそんなことはないか)。
しかし、それはあまりにも上段唐竹割りの上から目線の説教であって、
ファンは当然反発した。
そりゃするよな。
ファンが求めていたのは作品内に放置されたあらゆる謎への回答であって、ミステリーの出題編に対する解決編であって、監督のありがたいお説教などは求めていなかった。
今回はそうなっていなかった。
ところどころに暗喩が込められている。
それはステージの書割であるとかセットを撮るスタジオというような形で作品に溶け込んでいる。
そのほか、テレビシリーズのタイトルが映し出されたりもする。
エヴァンゲリオンがエヴァンゲリオンというフィクションであることが、作品が破綻しないように作品の内側から暗示される。
「テーマはさり気なく(さりげなくないけど)シノプシスは丁寧に」を行った。
これまで謎とされてきた部分について噛んで含めて説明している。庵野監督が大人になったと感じざるをえない。
(それでもまだよくわからない謎はあって、ファンから考察の楽しみをすべて奪ったわけではない。これも本作に如実に現れているサービス精神のひとつだと思う)
「私はシンジお前と同じだ」という弱さを認めて慟哭するゲンドウは庵野監督のもうひとつの姿でもある。
「オタクとかきもちわりーんだよ!」って言ってるやつが一番気持ち悪いからな。
というのをやった。
現実に帰らせる手法が、主人公がアスカを殺そうとして「気持ち悪い」と言わせることではなく、意志の力で世界を作り変えて現実を生きるという姿を見せた何たる前向きさ
「ネオンジェネシス」というタイトル回収まで行うサービス精神。
説明ゼリフはエンターテインメントでも文学的でも衒学的でもないけど、「伏線を敷いたら回収する」という作り手の責任を果たしている。
少なくとも果たそうとしている。
初見で観たヒトはゲンドウの独白はほとんど意味不明だろうけど、これまで20年以上エヴァンゲリオンを追いかけてきたエヴァオタにはわかる。これまで難解な神託を読み解こうとしていた信者が、初めて神よりその答え合わせをなされている。その法悦と言ったら!
こんなことはいままでなかった。
「面倒な客を帰らせるにはまずいものを作っちゃだめで
うまいものを食べたいものをこれでもかと腹一杯になるまで食わせることだ」
ということに気づいたのかもしれない。
客が求めるものを出して満足させて帰している。
エヴァファンも、「ああ、俺はこれが食いたくてずっと追いかけていたんだな」と映画を観ながら気付かされる。
作中、
テレビシリーズのような演出が入る。
(原画になり線画になり絵が崩れていく。それはシンジの自我の崩壊を暗喩している)
そして間一髪で救われる。
エンドには“終劇”の文字。
ああ、エヴァンゲリオンとはこういう話だったのか。
というのがようやく腑に落ちる。
『新劇場版』というのはテレビシリーズと旧劇場版を本当に改めて作り直しわかりやすく再構築した作品だった。
謎は解かれた。
シンジは前向きになった。現実を生きている。
エヴァの呪いは解けた。
庵野監督が「はい、このお話はここでおしまいです。めでたし、めでたし」と絵本を閉じたようだ。
観客は(それまでために溜め込んだ鬱憤が多かったら多かっただけ、長かったら長かっただけの。多くの観客は25年分の)満足感を得て劇場を後にする。
カップリング論争とか、誰と誰がくっついたとかいう話は、ディラックの海で散々やりあった後には全く無意味であると感じなければいけない。フィクションは虚数の海より嘘であり絵なのだから。
シンジがエヴァンゲリオン(絵)を否定して現実世界を選択したところで終劇となる
その意味を考えるべきだ。
それは無数にある可能性のひとつにすぎない。
作品のテーマが作品をぶっ壊す脱構築(意味がわからない哲学用語を衒学的に使用しています)なのだから、その論争はテーマから外れている。
カップリングに納得がいかないならいくらでも虚数世界の中で、コモディティ化した感性と知識の中で二次創作をやるべきなのだ。
それでいいのだ。
脱構築されたエヴァンゲリオンに納得がいかないなら観客は自ら補完することができる。おそらくそれでそのヒトにとってのエヴァンゲリオンは完成する。
メタフィクショナルな作品だよ。そりゃ。
通常の作品であれば二次創作を含めて完成というものはありえない。しかしエヴァンゲリオンではそれが許されていると思うし観客はそうするべきだと思う。ほとんど現代アートの域。
(ガイドラインでポルノ目的の二次創作は禁止されているとか、いやエロ同人は禁止されていないとか、詳しいところはわからないんだけど、禁止されているのだとしたら、作品のテーマとの矛盾を感じる)
(しかし、最悪、世に発表しなくても二次創作したっていい)
『シン・エヴァンゲリオン』はエヴァファンたちの卒業式だった。
それは鑑賞ではなく体験で、当事者以外は彼らが何に感動して泣いているのかわからない。
当事者たちは当事者たちだけが感じる清々しさと晴れがましさとすこしの寂しさを抱いて旅立っていく。
さようなら、すべてのエヴァンゲリオン。
おめでとう、おめでとう、おめでとう、おめでとさん、コングラッチュレーション……
ありがとう。
そんな気分になる。
やはりテレビ版からテーマは続いていたのですね。
テレビ放送が開始された1995年から四半世紀以上がたって、本当に新世紀になった。
エヴァは新世紀エヴァンゲリオンどころか四半世紀エヴァンゲリオンになった。
25年ぶんの垢を洗い流したような清々しさで観客は劇場を後にしたはずだ。
2021年3月8日は日本全国のエヴァファンが成仏した瞬間であった。合掌。