明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

『オタクはすでに死んでいる』(岡田斗司夫/新潮新書)

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地震以後、
避難所で苦しい生活を強いられている被災者の方々のことを思うと
普通に外で遊んだりご飯を食べたりお酒を飲んだりするのも
なんとなく気がはばかられる昨今ですが
皆様いかがお過ごしでしょうか。

外で遊ぶのが(気分的に)難しいこんなときだからこそインドアで読書でもして有意義に過ごしたいものですね。
なにしろこちとら地震なんてものがなくてもインドア至上主義なのです。

というわけで読んだ本の感想でも久しぶりに書いておこうと思った。
本の感想の他に「オタクとはなにか」ということに関して思うことも書いていたら
思った以上の長文になってしまったのでまぁお暇なときにでも…。
なにしろ急いで読んでもなにか得するということはございませんので…。

●主旨

食べたものをとにかく書き記しておくだけという「レコーディングダイエット」で
一般の方や女性の方にも知名度が上がった、
オタキング”こと岡田斗司夫オタク文化論。

本の内容を一行で言うと
「オタクはすでに死んでいる。なぜなら世代が変わったからだ。しかしそれは悲しんでも仕方がない。受け入れよう」
という主旨です。
あっいや一行よりちょっとはみ出ちゃった。

●内容と疑問

本の帯には
「オタクの死は“勤勉”と“高度消費社会”という日本の特徴が失われてしまったということに他ならない」

「一億総コドモ社会は何故生まれたか」
なんて大きく煽っている割に
「ではなぜそうなってしまったのか」ということに関してはフォローが薄い。

そして
「かつての知性と情熱を持った“強いオタク”は死んだ。今はただ受容し消費するだけの“弱いオタク”になっている」
とも言うんだけど、その原因について語る言葉は少ない。

「時代が変わったから」と
原因をオタク外のところに至極簡単に求めるというのは正直に言って物足りない。

「結局オッサンの『昔はよかった』ってことじゃねーの」っていう批判に対してはどう答えるのだろう。
ふてぶてしい顔をして「うん、そうだよ。いいじゃんそれで」って開き直りそうな筆者ではある。


●興味深かったのは「第六章 SFは死んだ」という項。

昔(70年代、オタクという言葉が生まれる前)は
いわゆる「オタク」的な人々は「SFファン」と呼ばれていて、
SF小説や映画を愛好する人たちでした。

でもその「SFファン」は時代と共に消滅してしまって
いまや〇〇オタクの中でもSFオタクはすっかりマイノリティになってしまっています。

どうしてそうなったかということを当時間近で見ていた筆者が語るには、
最初は海外の原書を辞書片手に読むようなハードコアなSFファンばかりだった「SF島」に
ガンダム』や『ヤマト』のブームと共にそういった教養を求めない
求める意味もわからないライトなSFファンが大挙して訪れて
彼らは自分の好きなものをただ愛せばいいという無責任な態度でもってSF島は死に至った。
という流れだそう。

要するにニワカSFファンが流れこんできて浅い知識と薄い自意識で
本当にコアなファンだけが持っていた熱気のようなものが希釈されてしまったと。

どうしてここに興味が引かれたかというと
あれっ今の「オタク」と一緒じゃんと思ったからです。

「(強い)オタク」とは、知性と情熱を持って自らの嗜好するジャンルに於いて研鑽と研究を重ね
「その分野において俺より詳しいヤツがいるなどというのは許せない」というような暗い情熱でもって
知識を増やしていくのがそれに対する愛情と思っていた。

そこにライトでただ消費することが愛情と思っている弱いオタクが押し寄せて
彼らはただ自分の好きなものを自分の好きなように「消費」するだけの存在であって、
そのとき隣にいるオタクは何も語るべき物を持たないただの他人に成り下がってしまう。
「オタクとは仲間である」という共同幻想を失う原因となる(だろう)。と。


●世代分け

本の中で筆者は
「今のオタクは変わってきている」と言い、
その原因を自ら「乱暴な論である」と自覚しながら
「オタク世代論」を展開します。

それは
最初のオタク=オタク第一世代
家にテレビが最初からあった世代=オタク第二世代
子供の頃からオタク作品に育てられた純粋培養世代=オタク第三世代
という分け方。

個人的に自分はこの分類で行くと「2.5世代」という気がします。
なぜならただ受容するだけのニワカやアニメに「萌え」だけを求める萌え豚には嫌悪を感じ
「おれっちオタクやし~」と気軽に言えてしまう子のようには
「俺、オタクです」とは言えませんもの。

いやこれは本当に実感することですが
今の子は昔ほど「オタク」であること、そしてそれを自称することに抵抗がないんですよ。
自分の感覚としては「オタクと知られること=社会的死」であり、
オタクは隠れキリシタンのように信仰を隠し「隠れオタク」として社会生活を営むか
偏見と差別の目に耐えながら開き直ってオタク生活を楽しむという2択しか存在しなかったように思います。

大学で東京に出るにあたり
そのオタクと自分の関係性に悩んだ挙句
「暴露系隠れオタク系」を目指す、という結論に落ち着いたのですが

(説明すると、自ら「俺オタクなんだー」と言っても「えーっ見えなーい」と言われるような
「清く正しく美しい、社交性ある明るい(けど)オタク」というようなイメージです。
そしてそのスタンスは基本的に今でもそのまま)

世間はそんなことをウジウジと考えていたあの日の自分を追い越して
今や「暴露系隠れないオタク」で溢れかえるようになってしまいました。
そしてそういうオタクはオタクを自称してはいるものの、
かつての「強いオタク」のような向上心(?)や強い探究心は持ちあわせてはいない、というわけです筆者は。


●本書のまとめ

本書の結論をまとめてみると、

宮崎勤事件以降、世間的に厳しい目にさらされた「オタク民族」を守るために
オタキング”として東大での講義や言論活動を続けてきたが
“明るい(薄い)オタク”が生まれてきてそれが主流となろうとしている現代、
その必要はいまここにきて失われた。

「オタク民族」という共同幻想(だったかもしれないもの)は薄く希釈され滅んでしまった。
しかしそれはサヨナラじゃなく自分自身の文化を探すためのエール。
「オタク」は変わった。
「オタク」という集団意識、仲間意識は最早捨て去るべきだ。
けれども変わってしまったことを嘆くより前向きに生きていこう!

というようなこと。
…やはりなんだか釈然としない。笑。


●感想

あっ岡田斗司夫って何者かというとアニメスタジオ・ガイナックスを作った人で
かつて『オタク文化論』という本で一世を風靡(?)した人で
それで東大でゼミやったりして
要は「オタク擁護論」の第一人者として長年活躍してきたポジションの人だったのね。と思いました。

そういう人が「俺が擁護してきた強いオタクは死んだ!」というのは説得力というか
古いオタクがみんな感じている「オタク新人類」への違和感をやはりこの人も感じていて
それをまとめた(だけ)の本、って感じです。

うーん本人も文中で言ってるんだけど
「今のオタクが変わってしまった原因」を世代論に集約してしまっているのは
あまりに浅く大雑把な議論で残念なような気がするなあ。

その考察がもっと読みたかったです。
「オタク新人類」に違和感を覚える「2.5世代」の身としては。

あとがきでは「オタキング廃業宣言」なんかも飛び出してはいますが、
それはそれで「元・オタキング」としてオタク民族の語り部として活動を続けていって欲しいですね。

で、それはそれとして
そもそもなんでこの本を読もうかと思ったかというと、
やはり「オタクは変わってきている」という実感が自分にもあったからです。

それは直に見るオタク達やネット上で見る質の変化だったりもするのですが
例えば映画『サマーウォーズ』の2ch上での評価を見ると

「これは『ぼくらのウォーゲーム』の焼き直しじゃん。
これを面白いと言うバカの気が知れない。細田守は焼き直ししかできない終わコン」

という論がまぁ、多々見られます。
説明しておきますと『ぼくらのウォーゲーム』というのは『サマーウォーズ』と同じ細田守さんがかつて監督をした
『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』というデジモンのアニメ映画です。
短いですが面白いですよ。

いや意見は意見でいいですし、個人的な感想は各個人が自由に持つべきであり
誰がどのような意見を言ってもそれは構わない事であると思いますが
浅い。

あまりにも浅薄な意見をドヤ顔で語る人がとてもたくさんいるのです。
確かに『サマーウォーズ』は『ぼくらのウォーゲーム』と似た筋書きで
同じような脚本の流れや演出も散見されますが

「ではその2作の相違点はどこなのか。
そしてその、同じ監督で同じような筋書きの映画なのに違ってきた点は、
どのような意図から生まれ、表れたものなのか」

というような、一歩踏み込んだ論評や考察といったものは全くと言っていいほど見かけられません。
どれも他人が言ったことをさも自分の意見であるかのように並べていて
そうしてただ「俺ってアニメ詳しいだろ~(ドヤッ」としたいためだけに書きこまれているかのような
浅い感想がたくさんあるわけです。

この例に限らず全部そうですよ全部。
見る、面白い、終わり。
となっている自称オタクが多すぎるのです。
あまつさえただ見ただけの本数を自慢したりね。

そういうのを見るとね…。
実際はどうあろうとやはり「オタクは死んだ」と思わざるをえないというかね…。

普通の人ならそれでいいし
面白い作品を見てただ「面白い」と快哉を叫ぶだけというのが正しい鑑賞方法だと思いますが
いやしくも「オタク」を自称するのならば!
それではいかんでしょ。

知り合いのライターの方から聞いた話なのですが、
取材で昔ながらのオタクの人に「あなたはオタクですか?」と聞くと、
「いやー違いますよ。僕なんて全然」と仰るのが大半だと。
(しかし見た目や行動はガチオタ)

そういう好事家の人たちは自分よりももっと詳しい、愛情を持っている、造詣の深い、
本物の「オタク」を知っているからこそ「いやー僕なんて全然オタクとは言えないですよ」という感想になるのだと。

しかるに昨今の「自称オタク」たるや
「いや~おれっち『らき☆すた』も『けいおん!』も観ちゃったし~。京アニ最高~。マジ俺アニオタ~」と。
一体これはなんだ、と。小奇麗な服着やがって、と。
非常にこう、ぐっと拳を握りしめてワナワナと震えさせたくなるような…。
感想になります。

(とか言って自分も他人(特に編集の人)に自己紹介するようなときは「オタクです」ということがあるんですが。
それはそこで「いやオタクじゃないです。そもそもオタクというのは~」なんて一席ぶつよりも
そうした方が話が早いからで、特に他意はないんです)

アニメ(映画)について感想を言い合ったり論を交わしたりする人が増えているというのはいいのですが
それがただ「喋って」いるだけで「語って」いないというか…。
「オタク島」の裾野が広くなってその分やはり浅くなってしまっているという感じを持っていたのです。
それで本屋で立ち読みしたところこの“オタキング”と呼ばれた岡田斗司夫も同じようなことを思っている、と。

というわけで興味を惹かれて買いました。

…とまぁここまで言ったからにはじゃあ自分は『サマーウォーズ』と『ぼくらのウォーゲーム』の
比較と考察くらいはやっているんだろうなと聞かれれば、特に何も書いてないですし。笑。
更に言えばその2作の大いなる下敷きとなっている『ウォー・ゲーム』(1983年)も特に見ていないという。
なんとも身も蓋もない片手落ちなことを暴露して終わります。
(このあたりが自分を「2.5世代」という0.5世代分の甘さ)

この場合、オタクを自称するならばせめて(あくまで最低限)この3作くらいは鑑賞してから口を開くのが
誠実な態度というものですね。
それでもこれでホラ『ウォー・ゲーム』のDVD借りて観てみなきゃ、というインドアな用事が1つできた。
恵まれたインドア生活――オタク生活というのはこうして知性と情熱と愛情による、
オタクとしての向上心でもっての自己研鑽を重ねていく充実した日々を暮らしていくそのことですね。

オタクよ強くあれかし!