明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

コンサートを楽しむ方法

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写真は女子プロレスラー里村明衣子
女だてらに(女子プロに対して「女だてら」もないもんだ)、非常に古式ゆかしいストロング・スタイル。
最近はスターダムという比較的新興の団体のリングに上がることも多いんだけど、ひとり異彩を放つ…というか、キャピキャピして(死語)雑誌のグラビアにも載っちゃうようなかわいい女子プロレスラーが多いスターダムにおいて、里村明衣子という女子プロレスラーは、圧倒的に「本物」すぎて、猫の群れに一匹だけ女豹を放り込んだようで、目を引かずにはいられない。
キックの音ひとつからして違っていて、他の者が「バシッ」という音で蹴っていても、里村が蹴ったときは「ベチィッ!」。
とにかく動作のひとつひとつが違うのだ。僕のような素人でも、「本物」を感じ取るほどに。

タイトルの話。
写真とは直接関係ないのですが、「生がいい」というところで共通することがあるのでこの画像を張ってみました。

生がいい。
ビールも刺身も音楽も、である(思考がオヂサンになっている人は別のことも連想したかもしれない)。
今日、とあるコンサートへ出掛けたのです。

音楽を言葉で表現するのは難しいし、音楽で受けた感動を表現するには、「震えるような」とか、「言葉を失うような」というように、それが真実であっても手垢のつきすぎてとても言い表しているとは思われないような慣用句を使わざるをえない。

だから、今日僕は本当に、柄にもなくピアノコンサートで、体の芯までじーんとなるような心地よい感動を味わったのだけれど、その曲の内容についてやいかに感動したかを語るより、音楽に素養のない、知識もない僕が、どうして感動するくらいに楽しめたのかということを、自分のためにも忘れないように書いておこうと思う。

コンサートがはじまってすぐ、僕は退屈のあまり、少し寝ようとまで思って目をつむった。
そのときに、短い曲が終わり、次の曲が始まった。

あたかも怒りがふつふつと湧くような、激しい戦いの曲。
曲が進むに連れて激しさは増して、メロディよりもリズムが大きく、ピアノというよりも、ドラムや和太鼓を叩いているみたいな曲になった。
きっと今、ピアニストは、本当に戦っているように、体をピアノにぶつけるように、拳で鍵盤を殴るようにしてピアノを弾いているに違いない。ひょっとしたら、ジャズピアノでもないのに、立ち上がって鍵盤を叩いているかもしれないぞ…。

少し驚いて目を開くと、そうではなかった。
せいぜい、さっきよりもすこし手を激しく動かしているくらいで、立ち上がってもいなかったし、ピアノを殴りつけてもいなかった。
激しくピアノを殴りつける美女(ピアニスト)の姿というのは、僕の想像でしかなかった。

ピアニストというのは音楽で、ひとの脳裏にありもしない情景を想起させるものなのだな、と、変な感心をして、再び目をつむった。今度は、眠りに落ちるためではなく、不意に訪れた想像を自分から楽しむために。

目を瞑って想像する。戦いの曲は戦うように鍵盤に体ごと叩きつけるような姿が思い浮かぶ。悲しい曲は泣くように。演奏者は音と一体になって、楽しい曲のときは「楽しげ」そのものになっている。不気味な曲のときは「怪しさ」そのものになってそこで人の形をして漂っている。人型の風船に、その曲が持つ感情をパンパンに吹き込んで、そのままゴムだけが割れたらそこに気体がその形で残るような、音が人の形をしているだけなのだと思う。

想像の翼が羽ばたくのは、誤解を恐れずにいうと半分眠っていたからかもしれない。
つまるところ、「鑑賞」というのは、ただ口を開けて受け取るのではなくて、自分から解析する、解剖を試みる、目を瞑ってしまう。そして想像する。この想像するところににポイントがあるのですね。

その想像にもいくつも方向性があると思うけど、コツとしては、とにかく自分の土俵に引っ張り込むことだ。
「あなたはまるで、9回裏二死満塁フルカウントの局面に立ったような迫力を持った女性だ!」
と、女性を評した星飛雄馬のように。

具体的に、例えばコンサートで曲を聴くにしても、「ああ、この曲はゲームなら戦闘曲だな」とか、「街の曲だな」とか。この曲を聞きながら酒を飲むなら、人生の渋みを凝縮したようなジンだな、とか、やっぱり明るくビールだな、とか、スルメを炙って日本酒以外ありえない…とか。野球なら誰の打席に合うとか、プロレスなら誰の入場曲にしたらいいとか、そういう…。
ああ、『暴れん坊将軍』のダイジェスト映像にぴったりだとか、試験で追い詰められたときこういう曲が流れているよな、とか、自分の身近に引きつける。
今回はピアノコンサートだったけれども、これは他の芸術にも多少応用が可能で、たとえば彫刻なら「おお、これだけ筋骨隆々なら四番打者に据えたい…いや引き締まっているから足も早いはず…なら核弾頭としてのトップバッターもありか…」とか、自分のエリアに、自分が「こういうことを考えるなら楽しめるぞ!」という領域まで、想像力のちからで引きずり込む。
そしてひとりでニヤニヤする。芸術の鑑賞なんていうのは、それでいいのだと思う。

きっと退屈な芸術鑑賞というのは、音楽に限らず絵画や彫刻などにもあるけれど、こういう受け取り方をすれば、感動できる…とまでは保障しないけど、楽しめたり少なくとも退屈を紛らわすことはできるのではないかと思うのです。

覚えているフレーズはないけれどもとにかく生の力。それを感じた。
髪の毛の生え際がビリビリするようにジーンとくる、震える、そういう力がありますね、生というものにはね。