明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

うつくしいことをうつくしいと言う

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言葉に限界を感じることがある。
例えば夕陽の沈む瞬間や冬の寒い日の星空や、台風のすごい日の窓の外なんかの、並外れた自然の本気みたいなものが出ているとき、それを言葉で表現することはとても難しい。
この雄大な美しさをなんとか誰かに伝えたいと思っても、何をどう表現したら伝えられるのか考えつかない。

今日の夕焼けもきれいだった。
遠くの山に沈む夕陽を見た。太陽は熟れきった柿かトマトのように橙と真紅の混じり合った灼熱の色になり、落ちる寸前の線香花火みたいにトロッととろけている。
細く長い雲で上下ふたつに別れたり、やわらかそうで、なんだかおいしそうだ。

卵黄みたいな太陽は、視界の端から端まで屏風のように広がる山の向こうに、倶利伽羅峠のあたりに沈んでいく。
空には薄く雲が張り、あの大きな空全体に、波のような文様と、虹のようなグラデーションを描いている。
逆に視線を砺波平野まで下げると、たっぷりと水をたたえた田んぼから湿気が上がるのか、平地にはぼんやりと綿菓子のようなもやがかって白い。
その下に横たわる水田は上空の夕焼けを反射して空と地平で虹色のサンドイッチをつくっている。

だから、夕焼けを描くとき、空を赤色に塗りつぶしてしまうのは、間違いなんだな。
本当は青空のブルーから、徐々に徐々に、ほんの少しずつグリーンや紫やピンクやオレンジを通って、放射状にグラデーションするその中心にある黄金色に到達するのが正しいのだな。
そうして、空気と水のあるところをダイナミックなカラーリングに染め上げながら、山の端や田の畦はくっきりと黒く際立つ。
そのコントラスト。
幻想の空と影の落差。
くろぐろとした山の稜線と田の畦の直角の直線。
とらえどころのない美しさの中に明確にあらわれる実存。描かれる人間の営み。その組み合わせ。人がいなければ存在し得なかった、美。

この風景を表すのに何万語尽くしても表現し尽くせる気がしない。
夕焼けを表現するのに、言葉の先達はどう言っていたろうか。スマートフォンで「秋は夕暮れ」と検索している数分間で夕陽の位置はより下がり、刻一刻とその色とひかりを変えていく。
言おうとしても、言葉を探しているうちに姿を変えてしまうのだから始末に負えない。こんなもの、言えない。口に出す先からもうそこにあった姿はなくなってしまっている。

一切のつなぎ目なしに広がる眼前の光景に対して、言葉は限定的すぎる。
世界の事象や概念を切り取って名付けることによって生み出された言葉は、現象の一部でしかない。
言葉の埒を超える感動を表現するには、やや不便な道具であることを認めざるを得ない。
だから人は絵を描くし音楽を作るし、その他さまざまな芸術を作るのだろう。言葉以外のものに感動を託して表現するのだろう。
そういうことができる人が素直に羨ましくある。

それでも僕は、言葉で語ろう。
百回うつくしい風景を見たら百回うつくしいと言おう。
思ったことや考えたこと以上のことは言えないし書けない。
だから僕は僕の言葉で、この不便な自分の道具で、精いっぱいにやるしかない。

沈みゆく夕陽を見ながら考えた、それが今日の結論です。

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