明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

2018年に思うこと

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思えば2017年はいろいろなところに出掛けた年でした。
東京から富山の実家に帰ること多数。
そのほか思い出せる順に、岩手、ロシア、大阪、名古屋(犬山)、島根など。
写真は島根に行ったときに、サンライズ出雲といういまや珍しくなってしまった夜行列車に乗った際、ラウンジで撮影した一枚です。

食堂車の電球色の照明に外の暗闇(たぶんこれは静岡あたりを疾走しているときだ)、やっぱり今時珍しい、細長い250ミリリットル缶。
欲を言えばこの際、デジタルカメラではなくて、素子の見えるフィルムカメラなんかで撮影するとより「味」が出たろうなとも思います。

2017年を振り返り、2918年を展望するこの記事のために、なにかふさわしい写真を探そうと10分くらいPCの中をあさりましたが、このどことなく自意識が鼻につく写真が出てきました。
改めて見てみると、欠点も目につきますが、あえて目をつむり、強い意志で見なかったことにした。

本題。
今年はこういうふうに過ごしたいなあとか、ああいうことをしたいなあということを、忘れないうちに書いておきます。
どうしても仕事が始まってしまうと、殺人的な日々の仕事量に忙殺され、正月休みで取り戻したまともな人間性ともともと乏しい記憶力は抹殺されてしまいます(一文の中に3回も「殺」が出てくる物騒な文章だな)。

情熱の炎静かに絶やさずに、という昨年のブログのタイトルは個人的にも気に入っていました。
今年の急がずにでも休まずに、という題も似たような意味と意図なのですが、こちらは元ネタがあり、詩人のゲーテという人の格言だそうです。昔の人はいいこと言うなあ。
昨年の題よりも表現が詩的ではなくなっている分、いささか具体的になりました。
つまり詩人というのは詩的な表現よりも端的な表現で実用を好む(場合がある)のですね。

自分のための文章をもっと書きたい。
昨年すこし、少し長めのテキストを思いきり書く機会があって(紆余曲折あって全体の分量を半分くらいに削ることになったものの)、それがすごく楽しかったのですね。
久しぶりに、自分の書きたいことを、自分が持てる能力をすべて用いて、書ききる。少なくとも書き切ったと思えるくらいに、書きました。
全身から汗を吹き出すようなイキオイで、わーーーーーーっと叫びながら(想像上のことです)、深夜にキーボードを叩きまくる。自分の内心で思っていたこと、練っていたアイデア、考えていたことを形にする。言葉が羅列されていく。書きながら、言いたいことを整理する。胸のうちにあったふわふわしたものが、文章になっていく。
あの楽しさというのは、苦しくとも、やはり格別のものだなと、改めて思いました。思い出しました。

もちろんそれは他者に読ませることを前提とした、他者のための文章なのですが、自分が「読ませたい、読んでほしい」と強く思って書いた、自分のための文章でもありました。
今年はそういうテキストを書く機会を増やしたいですね。

このブログ(日記)も、他者に読ませることを前提としていないという意味では「自分のための文章」なのですが、もう少し違って、他者に読んでもらって楽しんでもらえるという前提のうえで、自分の気持ちや考えも表現できる文章を書きたいということです。
(しかし、このブログを「文章」なんて立派な言葉で表現すると、バチがあたりそうだ)
なんにしても、自分が「好きだ」と思えることを「ここが好きだ、あれがああなのがすごく好きだ」と詳しく言っていくことは、とても気持ちのいいことです。
そういうことをしたい。

あと、それに半分ともなう問題で、文体の確立という大きな目標もあります。
これは別に必ず今年のうちにやらなければいけないということではないですが、そのような意識でいたいということです。
そもそも文体というのはその文章を誰が書いて誰に読まれるか、いわば話者と聞き手の立場が固まっていたり、話者の強烈な個性によって確立されるものです。
このブログは基本的に、何も考えずに、ダラダラと考えを吐き出したり、映画や本の感想をメモしておくところなので、文体はそのときの気分によって変わります。

別にそれで不都合があるわけでもないのですが、いわば芸風の確立というか。野球で言えばバッティングフォーム、スイングを固めるというか。文章を書く際の足場を固めたい、そういうふうに思っているということを、忘れないように書いておくのです。
いまはですます調で書いていますが、内容によっては「だ・である調」で書くこともあったり、一人称は「僕」だったり「俺」だったり、まちまちです。
じつはこれは僕の内心で、確固たる人格が確立されていないというあかしでもあります。
これを突き詰めていくと「自分とはどういう人間なのか」という問まで発するけど、そんなことは正月から考えることではない。
もちろんそのようなことを1年や2年で固められるわけではありませんが、「少なくとも自分としてはこういう人間になりたいと願っているのだ」というくらいのこと、自分自身への道筋くらいは、引いてやりたいなと思うわけです。

あとは本もたくさん読みたいし、映画も観たい。
ゲームだって遊ぶべきだし、東京にいるメリットを活かしていろいろな展覧会にだって出かけたいと考えているのです。
興味のアンテナを広く張り、気になったものは実際に足を使って見に行くことで、具体的に動くことで、なにか具体的な結果が得られるだろうと考えています。

と、まあ。あんまり年初から立派なことを書くと、逆に何もできずに終わりそうな気もしますが、目標は無理めなもののほうが、成果が大きくなる可能性があります。
50を目標にしたら、100%の達成率でも、50です。
ところが120を目標としていた場合、わずか50%の達成率でも、なんということでしょう、60の実利が手に入り、50の100%を、上回るではありませんか。

つまり僕が言いたいのは、立派な目標を言うというのは、自身がそれを達成できる立派な人格を持つと思っているからではなくて、むしろ「俺にこんなすごいことができるわけねーだろバーカバーカ」という、自身の性格を知悉しているからこその目標であり高い理想なのです。未達成を織り込んだ上での高い目標というわけで、チャントした人からは怒られそうな話ですが、多分こっちのほうがいい。

むずかしいことをやさしく。
やさしいことをふかく。
ふかいことをおもしろく。
おもしろいことをまじめに。
まじめなことをゆかいに。
そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

この言葉を見るたびに、これが極意であり原点であるなとしみじみ感じ入ります。
その極意に近づくための努力、こころもち、態度というものを、休まずに持ちたい。でも、焦らずに。
そんなことをいま、思っています。

なんだか散漫な文章になってしまいましたな。
こうじゃなくて、もっと、こう……読んでおもしろい感じに……もっと……こう……。