明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

文学というものについて

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画像は最近読んだ中で心にスマッシュヒットした本。
こんにゃくの成立から発展過程、こんにゃくの軍事利用までこんにゃく尽くしの一冊。

こんにゃくが軍事利用された最初(でおそらく最後)の例、
『「ふ」号兵器』、通称「風船爆弾」については最近こんなニュースがありましたね。
http://www.asahi.com/science/update/1224/TKY200712240159.html
>「風船爆弾」心臓部を寄贈へ 横浜の女性、国立科博に 2007年12月25日12時34分

>太平洋戦争末期に旧日本軍が独自開発した「風船爆弾」の心臓部にあたる「高度維持装置」が、
>27日に国立科学博物館に寄贈される。
>国内で確認されている唯一の実物で、科博は「残っていること自体が奇跡的。
>日本の技術史の空白を埋める貴重な史料だ」と歓迎している。

この「風船爆弾」の気球部にこんにゃくが使われていて、
そのことについても詳しく書かれている。
あの「こんにゃく」が、太平洋を渡りきり、
世界初の大陸間弾道兵器に欠かせない素材となっていたとは……。
かなり好奇心が刺激されました。
風船爆弾についてここで述べたいのは山々なんだけれども、
今日の本題からは外れるので割愛。


今年の読書量の目標、1ヶ月10冊で120冊。
もちろん挫折中。
27日現在で94冊。
あちゃー。
1日1冊読んでも100冊に届かない。
まぁそのことについても本題から外れるので終わり。

以下本題。

文学とは何か。
文学は何のためにあるのか。
何が文学であって何が文学ではないのか。

というようなことについてじっくり考えてみた。












………………………………………知ったこっちゃねえや!

という結論が出た。
しごくまっとうな結論である。





いやまぁ、何が言いたいかと言うと、
ほぼ日刊イトイ新聞」で文学についてすばらしい文章があったから、
それを紹介したい。

少し(かなり?)長いけど全文を引用する。
http://www.1101.com/darling_column/2007-08-27.html

 <カラマーゾフの兄弟、売れろ売れろ!>

 いま、西伊豆の民宿でこれを書いているので、
 出典などをちゃんと調べられないのだけれど、
 詩人の荒川洋治さんの言ったことで、
 「文学は実用のものです」というような内容があった。
 たしか、日本経済新聞の取材に応じての言葉だったか。
 とても感心して、切り抜いておいたのだけれど、
 どこかに仕舞いなくしてしまった。

 読み書きそろばん、という学問は、
 たしかに実用に役立つということはわかる。
 さらに言えば、世の中に出ている
 さまざまなビジネス書だとか、自己啓発書だとか、
 技術書だとか、指南書だとか、
 ま、いろんな本が実用書と考えられている。

 そして、芸術全般がもちろんそうなのだけれど、
 文学というものは、
 非実用の学問だということになっている。 

 だけれど、人が、いちばん知りたいことは、 
 人間のことである。
 人間が、どういうときに、どういうことを思うか。
 どんなことがあると、どういう考えになったりするか。
 どういう状況のときに、どんな行動をとるのか。
 思っているけれど、本人にはうまく言えないこととは、
 どういうようなことなのか。
 そんなことについて、文学のなかには
 たくさん書かれている。
 若いときの、若い人の気持ち。
 年を取った人の、年を取るまでは表われなかった心理。
 女と男の、たがいに理解しにくい心のやりとり。
 きれいなこと、きたないこと、
 意思、興味、無関心。

 これまで、
 小説に描かれてきたような「人間のこと」を、
 ひとりの具体的な人生のなかで、
 できるかぎり経験しよう味わおうと思ったとしても、
 それは、絶対に無理なことだ。
 しかし、「我がこと」としての実感がないとしても、
 「人間というは、そういうことをするものらしい」
 と、小説のなかの人物に見せられるだけでも、
 経験に似たものは得られたりする。

 小説ばかり読んでいたって、実際のことはわからない。
 そういう言い方もあるのはわかるし、
 そのとおりだと、実は、ぼくも思う。
 でも、人間の考えることのパターンが、
 いくつもあるんだと知っているだけでも、
 勉強の成果としては十分なのではないだろうか。 

 いろんな集団があるけれど、
 文学を好きで、ある程度の本を読んできた人たちは、
 会話のなかで、「信じられない」とか、
 「ありえない」とか言う回数が少ないと思う。
 ほんとうに人間というやつは、
 気持ちや考え、欲望や夢に、
 ものすごく豊かヴァリエーションを持っている。
 そういうことを、小説のなかで知っている人は、
 そう簡単に「信じられなーい」とは、言えないだろう。

 すぐれた経済学については、知らないけれど、
 おおむね経済の学問をしてきた人は、
 「とりあえず人間は
  利益の大きいほうに向かって行動する」
 という法則で、
 人間のほとんどすべての行動を考えようとする。
 しかし、文学のなかの人間は、少なからず
 「利益の小さいほうに向かって行動する」ことがある。
 どっちが正しいか、論争をする気は、ぼくにはない。
 どちらが豊かな人間理解であるか、ならば、明らかだ。
 経済の学では、おかしなことだということになる
 文学のなかの人間の行動のほうが、
 人間の可能性を豊かにとらえている。
 ぼくは、そう思う。 

 人間は、人間とつきあい、人間のことを考え、
 人間を理解しようとし、人間に頼み事をし、
 人間を利用したり、人間をよろこばせたりしながら、
 生きていくものだ。
 だとしたら、人間のことをわかるためにすることは、
 いちばん大事かもしれない学びではないのか。 

 冒頭に記した荒川洋治さんの、
 「文学は実用のもの」という考えは、
 とてもよくわかる。
 ぼくが同じことを言うかといえば、
 「実用のもの」とあえて言わないほうが、
 結果的にかえって「実用的」だという気もするので、
 言わないような気もするんだけどね。
 「効率のいい実用的」なものに、「ただの豊か」は、
 負けちゃいそうな気がするもんで。

 だけど、ぼくみたいな、
 ちゃんと本を読んでこなかった人間が言うと
 あんまり説得力はないんだけれど、
 人間のことを知るには、ほんとに、
 実際にたくさんの人に会って、
 じぶんなりに人間のことを考え続けることか、
 文学のなかの人間に会うか、
 どっちかしかないと思うのだ。

 『カラマーゾフの兄弟』が、いま、
 新しい翻訳と、新しい売り方で、
 ベストセラーになっているというけれど、
 それはとてもとてもとても、
 いいことだなぁと思っている。
 近所の人たちが、
 とても見せてくれないような気持ちや、
 考えや、言葉を、あの小説のなかの人々は、
 たっぷり見せてくれるからなぁ。
 もっともっと売れたらいいのにと思う。
 推理小説のようにおもしろいとか、
 いろんな薦め方があるのはわかるのだけれど、
 薦め方のテクニックなんか、使わなくてもいいと思う。
 この小説に書いてあるようなことを、
 人間は考えてきたんだ、と知るだけでいいじゃないか。

 人間がどうのこうのよりも、
 お話のゲームを楽しむために書かれた小説はあるし、
 それはそれで、遊びとして
 豊かに実ればいいことなのだけれど、
 「人間は、人間のことをいちばん知りたいんだ」
 ということがわかるなら、
 遊びにはならないかもしれないけれど、
 『カラマーゾフの兄弟』を、
 我慢して読んだっていいんじゃないかな。



まだ読んだこと無いんだけどもね>『カラマーゾフの兄弟
このなかの、

>だけれど、人が、いちばん知りたいことは、 
>人間のことである。
>人間が、どういうときに、どういうことを思うか。
>どんなことがあると、どういう考えになったりするか。
>どういう状況のときに、どんな行動をとるのか。
>思っているけれど、本人にはうまく言えないこととは、
>どういうようなことなのか。
>そんなことについて、文学のなかには
>たくさん書かれている。
>若いときの、若い人の気持ち。
>年を取った人の、年を取るまでは表われなかった心理。
>女と男の、たがいに理解しにくい心のやりとり。
>きれいなこと、きたないこと、
>意思、興味、無関心。

なんて部分は、
文学作品の「文学性」というようなものを、
誰にでもわかりやすく表現して、
なのに真をついている、
まったくすばらしいところだと思うんですよ。

文学とは人間を描くものであるというシンプルなことを、
これだけ腑に落ちるように書いてくれたのは、
私にとっても他の大勢の人にとっても、
まったくありがたいことですね。

人間が嫌いでたまらない。
だけど人間が好きでたまらない。

そんな人には文学が向いている。





と思う。



糸井重里好きだーっ。
その才能が妬ましいーっ。

ちょっとくれよもう。



まぁせっかくいい話やからあんまりなんも言わんと終わるわ。