夏目漱石とか2
画像は『三四郎』。
『デスノート』の小畑健が表紙を描いた『人間失格』とまでは言わないけど、
この表紙の二人はせめてもう少しいい感じにならなかったか。
もう少し現代風にするとかさ……腕にシルバー巻くとかさ(違……
たぶんこの男女は主人公・三四郎とヒロイン・美禰子なんだろうけど……
こんな眉無しおしろいオバケと目に覇気の無いしょんぼり男子では……
いや、まぁ、女の方がまさかの与次郎(←大事なお金を馬券でなくすダメ友人)という可能性もないではないけど……。
まぁ表紙なんて飾りですよね。
どんな話だったかといえば、
ぶっちゃけて俗な言い方をすると明治時代のラブコメ。
攻略ルートは
「(冒頭の)積極的な年上女性」「主人公憧れのヒロイン美禰子」「友人の妹」という、
ラブコメとしてなんとも正統派(?)な3人。
田舎出の青年が東京で恋をする、明治時代の『東京ラブストーリー』。
あ~の~日 あ~の~と~き あ~のば~しょ~(三四郎池)で き~みにあえ~なかあ~たら~♪
ええと…だからこういう軽口を叩いてしまうから、
マジメに言いたいことにも説得力がなくなるしダメなんだってヴぁ……。
自分でわかってても自重する気が無いのが救えないですよね。
冗句、冗句。
ええと、無理して高尚に言うと、
田舎から都会に出てきた青年が感じる、
自ら志す学問と理想と現実の乖離と、
新時代の都会派の女ミネコとの恋と煩悶と、
つまり人生の青春を描く意欲作。
…高尚でもねーなこりゃ。
軽口のフォローをしようと思ったけど失敗だこれは。
砕いて言うと
「なんか恋愛ってよくわかんねーよな。相手が何を考えてるかとかさ。考えれば考えるほど袋小路だよね」
っていう若くてほんのりした感がこの小説のミソです。
物語は主人公である三四郎視点だから、
三四郎が抱える「ミネコ何考えてるんだ」感を読者は共有するわけだけど、
きっとそれってミネコも「三四郎さん何考えてるの」と思っていたと思うんだよね。
それがミネコが漏らす「迷羊、迷羊(ストレイシープ、ストレイシープ)」っていう言葉だったり、
「我が罪は常に我が目前にあり」っていう決別の言葉だったりするんじゃないか。
なんかよくわからなくて、進歩的で新時代の女であるところのミネコが、
最後にふっと寂しそうな顔をするところは『草枕』のラストシーンと類似の、
読者の胸に不意に迫る漱石が書く女性の、なんというか、
漱石言うところの「俳味」であるのではないかと思う。
(『解説』に書かれていることを自分流に解釈するとこうなる)
(別に美禰子が寂しそうな顔をした、って描写は無いけどそういう表情なんだって!絶対!たぶん!)
「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」(by冒頭の女)
熊本から東京へ出る汽車の中で出会った女は、
きっと女難の相が三四郎に出ていたことの暗示だったのであろー。
なんとなく夏目漱石論。
まぁ、取り立ててどこがどうってことではないんだけど。
読んで素朴に思ったことを素朴に書くと、
夏目漱石の小説は人間の要点とでも言うようなものを押さえてあるんじゃないかと思う。
この『三四郎』にしたって何か事件がおきたり、
アッと驚くような伏線が張られてたりするわけじゃないんだけど、
なんか、なぜか主人公の心情とかわかる。
ふとした共感があったりする。
それがなぜかと考えると、
人間が誰でも思うような、不思議に思うような、ありがたく思うようなことを
(それでいてなかなか言葉にしづらい、あやふやではなく明確にあるんだけど、やっぱりほんのりしてすくいづらいものを)、
すくって言葉にするのがうまいのかもしれないなあと思ったり。
そしてそれって人間の本質を描いてあるってことなのかも。
人間の本質が描いてあるから時代を超えて読まれているのかも。
人間の本質が描いてあるから夏目漱石の小説は文学なのかも。
これは勝手な考えだから、文学者の人とかがどう言ってるのかは知らんけどね。
知らん、知らん。なーんも知らん。
そんな結論ですむからブログって素敵です。
なんも知らんから知ろうとするのだ。無知の知ってやつ。
「無知の知」はアリストテレスだっけ? 仏陀だっけ? ソクラテスだっけ?
知らん、知らん、なーんも知らん。
ぐぐる気も起きない。眠いし。
眠いので寝てしまう。
『デスノート』の小畑健が表紙を描いた『人間失格』とまでは言わないけど、
この表紙の二人はせめてもう少しいい感じにならなかったか。
もう少し現代風にするとかさ……腕にシルバー巻くとかさ(違……
たぶんこの男女は主人公・三四郎とヒロイン・美禰子なんだろうけど……
こんな眉無しおしろいオバケと目に覇気の無いしょんぼり男子では……
いや、まぁ、女の方がまさかの与次郎(←大事なお金を馬券でなくすダメ友人)という可能性もないではないけど……。
まぁ表紙なんて飾りですよね。
どんな話だったかといえば、
ぶっちゃけて俗な言い方をすると明治時代のラブコメ。
攻略ルートは
「(冒頭の)積極的な年上女性」「主人公憧れのヒロイン美禰子」「友人の妹」という、
ラブコメとしてなんとも正統派(?)な3人。
田舎出の青年が東京で恋をする、明治時代の『東京ラブストーリー』。
あ~の~日 あ~の~と~き あ~のば~しょ~(三四郎池)で き~みにあえ~なかあ~たら~♪
ええと…だからこういう軽口を叩いてしまうから、
マジメに言いたいことにも説得力がなくなるしダメなんだってヴぁ……。
自分でわかってても自重する気が無いのが救えないですよね。
冗句、冗句。
ええと、無理して高尚に言うと、
田舎から都会に出てきた青年が感じる、
自ら志す学問と理想と現実の乖離と、
新時代の都会派の女ミネコとの恋と煩悶と、
つまり人生の青春を描く意欲作。
…高尚でもねーなこりゃ。
軽口のフォローをしようと思ったけど失敗だこれは。
砕いて言うと
「なんか恋愛ってよくわかんねーよな。相手が何を考えてるかとかさ。考えれば考えるほど袋小路だよね」
っていう若くてほんのりした感がこの小説のミソです。
物語は主人公である三四郎視点だから、
三四郎が抱える「ミネコ何考えてるんだ」感を読者は共有するわけだけど、
きっとそれってミネコも「三四郎さん何考えてるの」と思っていたと思うんだよね。
それがミネコが漏らす「迷羊、迷羊(ストレイシープ、ストレイシープ)」っていう言葉だったり、
「我が罪は常に我が目前にあり」っていう決別の言葉だったりするんじゃないか。
なんかよくわからなくて、進歩的で新時代の女であるところのミネコが、
最後にふっと寂しそうな顔をするところは『草枕』のラストシーンと類似の、
読者の胸に不意に迫る漱石が書く女性の、なんというか、
漱石言うところの「俳味」であるのではないかと思う。
(『解説』に書かれていることを自分流に解釈するとこうなる)
(別に美禰子が寂しそうな顔をした、って描写は無いけどそういう表情なんだって!絶対!たぶん!)
「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」(by冒頭の女)
熊本から東京へ出る汽車の中で出会った女は、
きっと女難の相が三四郎に出ていたことの暗示だったのであろー。
なんとなく夏目漱石論。
まぁ、取り立ててどこがどうってことではないんだけど。
読んで素朴に思ったことを素朴に書くと、
夏目漱石の小説は人間の要点とでも言うようなものを押さえてあるんじゃないかと思う。
この『三四郎』にしたって何か事件がおきたり、
アッと驚くような伏線が張られてたりするわけじゃないんだけど、
なんか、なぜか主人公の心情とかわかる。
ふとした共感があったりする。
それがなぜかと考えると、
人間が誰でも思うような、不思議に思うような、ありがたく思うようなことを
(それでいてなかなか言葉にしづらい、あやふやではなく明確にあるんだけど、やっぱりほんのりしてすくいづらいものを)、
すくって言葉にするのがうまいのかもしれないなあと思ったり。
そしてそれって人間の本質を描いてあるってことなのかも。
人間の本質が描いてあるから時代を超えて読まれているのかも。
人間の本質が描いてあるから夏目漱石の小説は文学なのかも。
これは勝手な考えだから、文学者の人とかがどう言ってるのかは知らんけどね。
知らん、知らん。なーんも知らん。
そんな結論ですむからブログって素敵です。
なんも知らんから知ろうとするのだ。無知の知ってやつ。
「無知の知」はアリストテレスだっけ? 仏陀だっけ? ソクラテスだっけ?
知らん、知らん、なーんも知らん。
ぐぐる気も起きない。眠いし。
眠いので寝てしまう。