原付壊れて
修理に出して2万円。
この世の中は、
異常なことがまるで正常であるかのような顔をして、
大手を振って、
闊歩している。
異常なそのことを、
ただ大人数が我慢しているからという理由だけで異常であると認めようとしない。
むしろそれが正常であると主張し、
異常なことを異常であると主張するものには、
「正常」な者から異常であるとのそしりを受ける。
満員電車に乗る。
すし詰めになった車内に知り合いなど1人もいない。
これだけ大勢の人数が居るのに、
見知った顔はひとつも見当たらない。
これは異常なことではないだろうかと、少し不安になる。
芝居か映画に例えて言うと、
自分の人生にとって彼らはあくまで背景である。
しかし背景とは背中にあって主役を引き立てればいいのであって、
背景に取り囲まれて身動きが取れなくなってしまっては、
筋が違う。
こう筋が違って主役も背景も無くなると、
自分も他人も収穫後のジャガイモと変わりない。
押し合いへし合い、
上になり下になり、
転がされて目的地に着くのを待つだけだ。
そこに私は主体性の喪失を見る。
そこに人間の人間らしさは見当たらない。
ただお互いに背景を背景扱いしているだけだ。
これだけの人数が車内にいて、
だれもこの乗り物を自由に動かすことはできない。
あくまでジャガイモのようになって、
黙って揺られ続けなければならない。
他人の体が体に触れる。
「熱い」と思うのだけれど、
その感覚に反して体には冷や汗をかく。
冷たい嫌な汗をかく。
ひやっとした体の向こうに、
他者の火照った体がある。
体に触れている感覚からわかるだけでも、
自分1人の周りの5人が接触している。
前後左右。
それよりも1人多くどこかから接触している。
岐阜県のような気持ちになる。
見知らぬ男と、
見知らぬ女と、
見知らぬ自分が、
冷や汗をかきながら、
十重二十重に囲まれながら、
顔をまともに見たこともない他人なのにからだの熱さは知っており、
ジャガイモのように主体性を失いながら、
「これは正常なんだ、普通のことなんだ」と自分に言い聞かせている。
どう考えても異常だ。
どう考えても異常だと、みんな思っているのではないか。
みんながどう考えても異常だと思うことを、
みんなが「これは正常だよ」とお互いに信じ込もうとするのは、
異常どころか、
狂気の沙汰ではないか。
現代は狂気なくして生きられぬ時代である。
狂気の無い者は狂っているとされる時代である。
いいとも悪いとも思わない。
そういう時代なのだろうと思う。
夏目漱石てのは「近代」の批判者で、
まぁ理屈っぽいおっちゃんなんだけれども、
昨日原付が壊れて久しぶりに首都東京の満員電車に乗って、
もぉー…辟易した。
ってことを、
夏目漱石風に書くと上のようになる。
いや…夏目漱石3割…自分が6割…って感じか。
残り1割は人間で言う細胞間物質か宇宙で言うダークマターみたいなもの。
「(満員)電車イヤや」
という、一言で言えば一言ですむことを、
ハッキリと勇気と自信を持って一言で言うのと、
上のようにひたすらまわりくどく含みを持たせて言うのとでは、
どちらが尊いんでしょうね。
お酒は飲んでないよほんの少し疲れてるだけ。
日々の仕事で書けない自分の澱を吐き出してるだけ。
小難しいことを考えて喜んでいるのです。
あ、いまさらながらですけど画像は関係ありません。
ブログという(一応)パブリックな空間にプライビットなストレスを吐き出してしまったお詫びに、
かわいい猫でも貼っておこうというきもち。
あ、それか『吾輩は猫である』という、
近代社会に対する批判精神をもった作品への暗喩かオマージュ。
(もちろん今思いついた)
この世の中は、
異常なことがまるで正常であるかのような顔をして、
大手を振って、
闊歩している。
異常なそのことを、
ただ大人数が我慢しているからという理由だけで異常であると認めようとしない。
むしろそれが正常であると主張し、
異常なことを異常であると主張するものには、
「正常」な者から異常であるとのそしりを受ける。
満員電車に乗る。
すし詰めになった車内に知り合いなど1人もいない。
これだけ大勢の人数が居るのに、
見知った顔はひとつも見当たらない。
これは異常なことではないだろうかと、少し不安になる。
芝居か映画に例えて言うと、
自分の人生にとって彼らはあくまで背景である。
しかし背景とは背中にあって主役を引き立てればいいのであって、
背景に取り囲まれて身動きが取れなくなってしまっては、
筋が違う。
こう筋が違って主役も背景も無くなると、
自分も他人も収穫後のジャガイモと変わりない。
押し合いへし合い、
上になり下になり、
転がされて目的地に着くのを待つだけだ。
そこに私は主体性の喪失を見る。
そこに人間の人間らしさは見当たらない。
ただお互いに背景を背景扱いしているだけだ。
これだけの人数が車内にいて、
だれもこの乗り物を自由に動かすことはできない。
あくまでジャガイモのようになって、
黙って揺られ続けなければならない。
他人の体が体に触れる。
「熱い」と思うのだけれど、
その感覚に反して体には冷や汗をかく。
冷たい嫌な汗をかく。
ひやっとした体の向こうに、
他者の火照った体がある。
体に触れている感覚からわかるだけでも、
自分1人の周りの5人が接触している。
前後左右。
それよりも1人多くどこかから接触している。
岐阜県のような気持ちになる。
見知らぬ男と、
見知らぬ女と、
見知らぬ自分が、
冷や汗をかきながら、
十重二十重に囲まれながら、
顔をまともに見たこともない他人なのにからだの熱さは知っており、
ジャガイモのように主体性を失いながら、
「これは正常なんだ、普通のことなんだ」と自分に言い聞かせている。
どう考えても異常だ。
どう考えても異常だと、みんな思っているのではないか。
みんながどう考えても異常だと思うことを、
みんなが「これは正常だよ」とお互いに信じ込もうとするのは、
異常どころか、
狂気の沙汰ではないか。
現代は狂気なくして生きられぬ時代である。
狂気の無い者は狂っているとされる時代である。
いいとも悪いとも思わない。
そういう時代なのだろうと思う。
夏目漱石てのは「近代」の批判者で、
まぁ理屈っぽいおっちゃんなんだけれども、
昨日原付が壊れて久しぶりに首都東京の満員電車に乗って、
もぉー…辟易した。
ってことを、
夏目漱石風に書くと上のようになる。
いや…夏目漱石3割…自分が6割…って感じか。
残り1割は人間で言う細胞間物質か宇宙で言うダークマターみたいなもの。
「(満員)電車イヤや」
という、一言で言えば一言ですむことを、
ハッキリと勇気と自信を持って一言で言うのと、
上のようにひたすらまわりくどく含みを持たせて言うのとでは、
どちらが尊いんでしょうね。
お酒は飲んでないよほんの少し疲れてるだけ。
日々の仕事で書けない自分の澱を吐き出してるだけ。
小難しいことを考えて喜んでいるのです。
あ、いまさらながらですけど画像は関係ありません。
ブログという(一応)パブリックな空間にプライビットなストレスを吐き出してしまったお詫びに、
かわいい猫でも貼っておこうというきもち。
あ、それか『吾輩は猫である』という、
近代社会に対する批判精神をもった作品への暗喩かオマージュ。
(もちろん今思いついた)