明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

映画『ヒトラーの贋札』

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のDVDを借りてみる。
80回アカデミー外国語映画賞作品
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%B4%8B%E6%9C%AD
Wikipedia



★あらすじ
第2次大戦のさなか、
ドイツがイギリス経済撹乱をねらった贋札作り大作戦「ベルンハルト作戦」の様子を描く。
主役はユダヤ人の贋札作り職人。
贋札製造の罪で逮捕され、収容所送りになるも、
その腕前を見込まれベルンハルト作戦に参加させられる。
贋札を作りドイツの作戦に加担するようなら同胞への裏切りになるが、
(虐待・虐殺される同じユダヤ人たちの断末魔の叫び声が毎日のように聞こえてくるのだ!)
しかし作らなければ自分が処刑されてしまう。

こりゃまいった。
どうしよう。

(『カリオストロの城』の「ゴート札」はこの「ベルンハルト作戦」が元ネタ?)
(ポンド札は、当時英国の外貨準備高の4倍もの量が刷られたとか。そりゃ大混乱だ)

★感想
歴史と人間のドラマとロマンとかその他諸々がぎゅっぎゅーにつまった96分という短い映画でした。
これは・・・おもしろいな!
なんだか最近、舞台が昔の映画ばかり観ている気がするけど、中でも特にこれは面白かった。
現代より昔の方がドラマチックの時代だったのか?
昔に居たことがないから知りませんが。

囚われた主人公がドイツ(と自分の命)のために贋札を作る話なんだけど、
戦争がドイツ劣勢になりつつあると知り、
ドイツの足を引っ張ろうと作業のサボタージュを主張するヤツが現れたり、
ニセパスポートを作るために集められたユダヤ人たちの旅券の中に、
自分の子供のパスポートを見つけてしまって半狂乱になってしまうユダヤ人が居たり
(パスポートがそこにある=持ち主は収容所に入ってしまった=おおもう)、
短い時間の限られた舞台の中でさまざまなドラマが巻き起こるわけです。
贋札作りの直属の上司(少佐)が、
冒頭で主人公を逮捕した警官だったりね。
本人いわく「お前を捕まえたおかげで出世できた」。
で、その少佐が後半になって、
「実は俺は昔共産党員だったんだ」とかいってちょっと味方風な感情を示したりね。

短い中に歴史ドラマと人間ドラマとストーリーが素早く動いていく濃密な96分でした。


その他雑多なことを一言ずつ
・最初からエロスが。
・カメラが揺れたり、発言者をズームでとらえたり、
 カメラマンが舞台の中に居て、出演者と共に居るような演出が臨場感と緊迫感を増していて面白い。
・陰影の強い、暗い、コントラストのついた画面が多い。→映画全体の緊張感を生んでる。
・謝肉祭のシーンが楽しい。男同士でも、そこに男しかいなくても手をつなぎあってダンスを踊らなければならないようです。
 そのときだけはナチスユダヤ人と一緒に笑ったり楽しんだりしているのが、なんだかよくわかんない感覚です。

「収容所だが、ベッドはやわらかい方がいい」
自分の命を少しでも永らえるために、
同胞の敵であるドイツ軍に協力する心理と葛藤がミソですね。


人間性の描き方について
ナチスなら、どれだけ非人間的に描いてもいい。なぜならやつらは非人間的で恐ろしい振る舞いを実際にしていたのだから。
という理論にはちょっと異を唱えたい。
「やつらは○○だから、××してもいいのだ(それが多少ひどいことであろうが)」
という考え方こそが差別を生み虐殺を生むのではないか。
今のドイツでも、ナチス時代は一時の気の過ちで、黒歴史
完全に別物とする(したい)考え方が主流だと聞くけれども、
それは間違っていると思う。

人間を「別物」とする考え方だって差別を生むじゃないか。
「ナチだからどれだけ非人間的に描いてもいい」としてしまったとき、
そのときその人間の中にナチスという人たちに対しての思いやりや慈しみなどは当然ない。
差別というのはえてしてそうだろう。
「○○だから、そいつはとても普通の人間ではないから、多少ひどいことをしても許されるのだ」
という心理こそが差別の根源というか、そのものだろう。
であるならば、「ナチスならばどれだけ悪く描いてもいいのだ」という心理は、
十分に差別心を含んだ心理で、なんというか、解決していない。
ナチスの罪・非人間性を言うなら、事実だけを淡々と描く以外にはないのではないか)

言いたいのは、
たとえナチスであろうが、行いが非道で非人間的であろうが、
それを「非人間的」に描いては、
いつまでも人間の進歩はないのではないかと。
非道で非人間的なことを、
それは実はとても「人間的」なことなのだと描いて初めて、
人は人の非人間性・非道を自覚できるのではないか。
戦争が怖い、というのだけは少し足りなくて、
戦争はもちろん怖いんだけれど、それをできてしまう、
人間は怖い。

こうならなければいかんような気がする。
ナチスユダヤ人虐殺というのは、
人間が持っている嗜虐性の、歴史的発露であって、
特に不自然なことではない。
それを隠してしまっては何がなんだかわからなくなる。

ナチスドイツは、人間のある一面の人間性を最もよく表した時代・組織だったのではないか。
その真実を含む一面を「非人間的である(=人間に非ず)」としてしまって、
人間が非人間に登りつめる(堕ちる)その心理への至り方を考えないでは、
いつかまた同じ轍を踏まないとも限らないのではないか、
と思う。

逆説的に言うなら
「人間はとても(本質の一面として)非人間的な生き物である」
ということを思っていて、
人間が非人間的な生き物になるときの人間心理・社会構造などを見据えないでフタをしてしまって、
それは特殊な時代の不幸な産物だったとハナから異物扱いをしてしまって、
どうやってそれを克服しろというのか。

どこまでも冷徹な眼と頭でそれ――人間が本質的に内包する非人間性――を受け入れなければ、
人間というのはいつまでたっても同じ過ちを繰り返して、
バターになるまで堂々巡りしちゃうかもよ。

というようなことを思った。


話が大きくずれた。
映画は面白かったのでオススメです。
別にこの映画はそれほど「ナチス=絶対悪!鬼!悪魔!ちょび髭!」というテンプレ的に描かれてはいない。
(謝肉祭でユダヤ人たちと一緒に笑ったりするシーンが描かれたり)
同じスタジオの作品で、
ヒトラーの最期を描いた映画『ヒトラー ~最期の12日間~』という映画も面白そうだから借りてみてみたい。
(↑たぶんニコニコでよくMADに使われているヤツ)
(同じ流れで『羊たちの沈黙』も借りてみたい)



ヒトラーの贋札
公開:2007年(ドイツ・オーストリア共作)日本公開は2008年1月
第80回アカデミー外国語映画賞
監督・脚本:シュテファン・ルツォヴィスキー
出演:
サロモン・ソロヴィッチ(主人公):カール・マルコヴィックス
アドルフ・ブルガー(サボを主張):アウグスト・ディール
少佐:デーフィト・シュトリーゾフ
上映時間:96分