明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

2014年 新年所感

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年が明けましたな。

新年と言っても、昨日と今日で何が変わるというわけでもないのですが
それでもなぜか、なにか身にまとっていた透明で重たい皮を一枚脱いだような
モクリコクリに皮を剥いでもらったような清々しい爽やかさがありますね。
3日ぶりに風呂に入ったあとというか、溜まった垢を洗い流したようなスッキリ感が。

まぁ順風満帆とは到底いかない迷走人生を送り続けていますけれどもね
それでも初詣の折に手を合わせてあれこれと考えたり祈ったり呟いたりしていますとね
それでいいのだと。
迷走こそが直進することであるという知見を得ましたね。

小さなネズミや虫や蟻が、どうして自ら進むべき道を知悉していることがあろうか。

わからないながらもただ懸命にあちらへ行きこちらへ行き迷い歩いて走っているではないか。
余計な知恵のないひたすら自らの生にひたむきであるムシケラですらそうしているのだ。
ヒトケラであるところのワタクシの、我が矮小な人生においても同じことではないか。
迷走こそが直進することであるのではないか。

迷いながらも走っているだけ寝て過ごすより余程マシではないか。
迷走、上等。

めくらめっぽう無闇矢鱈に走り回って最終的になにか目標に辿り着ければいいし
辿りつけなければ疲れ果てるまで走ったその場所で力尽きて倒れ込んで眠ればよい。
眠るのに飽きたらまた跳ね起きて駆け回ればいい。

どこへゆく 神か仏の タナゴコロ…という句があるけれども(今つくった)、
どこまで行っても神仏の掌の上であるとすれば
人はその掌の上で懸命に駆けずりまわるほかないだろう。

地球は丸いのだから人はいくら直進しているつもりでも
三次元的には弧を描く軌道にならざるを得ない。
瑕疵ひとつない真球だとしても人がその上を歩いて直進することは不可能である。
まして人生というものはどうやら
ただ地球を歩くよりはるかに多くさまざまな起伏や天険に満ちているようです。

だから逆に、我が凹凸デコボコ人生においては
あの山を迂回しこの川を渡河して見えない落とし穴を第六感で避けて歩いていたりすれば
ふらふらと迷走しているように見える道が実は最短距離を行くことにすらなりえる。
どの道が直進であったかなんていうことは神以外誰にもわかりはしまい。

そんなようなことを思っています。