南砺市閑乗寺からの夕焼け
この季節
閑乗寺からの夕焼けは
水田に反射して、あぜ道と散居村のシルエットが美しいですね。
写真に撮るとオレンジ色ばかりになってしまうのですが
本当はもっとピンクや黄色や紫や
それらの入り混じった複雑で微妙な色が現れて
空全体に、空の大きさの虹が出ているようで
とても言葉にできないような景観で
眺めていると何故か胸が詰まりますね。
しかしこの時間帯に
人が大勢集まるのは仕方ないとしても
展望台におおきなスピーカーを置いてムーディーな音楽を流しているのは
まったく余計な心遣いで大きなお世話で
南砺市は一体何を考えているのかと担当者を問い詰めたい。
本当に美しい風景に触れたとき
その感想とか感動は、その人の胸の内から現れてくるものを待つべきであって
周りが、まして、仕事をした気になりたいだけの市役所が
余計なことをするんじゃないと本当に思いますね。
ダラんないがけ。
なぜ日本の夕焼けを眺めるのに
海外のシンガーの歌声に包まれなければならないのか。
流すなら五箇山の民謡でも流すようがよほど今の雰囲気と場所には合っている。
本当に美しい風景のなかで
気取ったカフェみたいなBGMを流すことが
ほんとうに必要なのかどうか、南砺市役所にはもう一度考えなおしてもらいたいですね。
(勝手に市役所を悪者にしているが、まさか個人が趣味で流していたのではあるまい)
虹というのは
太陽の光が雨粒や湿気によって乱反射して
プリズム効果(?)でスペクトルが分解されて(?)
要するに光の中に含まれているすべての色のそれぞれが別れて見ることができる現象ということで
この日の夕焼けが空を虹色に輝かせていたのも
そうだ光には虹色すべてが含まれているのだったということを思い出させてくれるのでした。
この景色をどうしたら言葉で言い表せることができるだろうか
例えば、この写真にキャッチコピーをつけるならどういう言葉がふさわしいだろうか
なんてことを眺めながら考えていても、言葉が出ませんでしたね。
ただ圧倒されて、ポカーンと口を開けて眺めるしかできなくなるような光景ですから。
言葉にできないような風景こそほんとうの風景なのだ。
言葉が生まれる前からこの風景はあったし
おそらく我々の先祖は、言葉というものにとらわれる以前からこのような風景を眺めていたし
美しい夕焼けに心を打たれていただろう…
と、もう先祖のせいにしてあきらめてただ眺めていたところに、3~4歳くらいの女の子を連れた家族連れがきて
「にじいろ…」
陽の沈む山の向こうを指さしながら
「虹色」という漢字じゃなくて、ひらがなで書くほうがしっくりくる口調で言いましたね。
「にじのところにいけるかな?」
参りました。