生ききるということ
会社の研修で座禅体験をやったことがある。
遊びみたいなものだったろうけど、ざふも敷いて、寺の中で、割とマジメにやった。
夏目漱石は精神の鬱屈を座禅で晴らせないか試してみたけど、ダメだったそうな。
その経験が『門』という、あまり明るくない話の小説に活かされている、と聞いたことがある。
座禅のコツは簡単だ。
息を長く細く吐いて、長く細く吸う。
ゆっくりと腹をへこませるように意識して体の空気を吐ききり、吸うときは逆に腹がパンパンになるまで吸いきる。
いわゆる腹式呼吸をすることを強く意識する。
(本式で座禅をやっている人からすれば「意識している時点でダメ、何もわかってない」と言われるのかもしれないが、あくまで体験レベルの話をしているのでご容赦ください)
とにかく、座って、石のように固まって、やや前方に視線を向けつつ目を伏せて、ただただ、呼吸を繰り返す。
毎日、毎時間、毎秒やっている「呼吸」は、ぜんぜん息を吐ききっていないし、吸いきっていなかったことを認識する。
ただ息をするだけでも、なにひとつ一生懸命にやっていないのだ。ほんとうに息をすることに専念すればこんなにも深い呼吸ができるのに。
座禅の効用のひとつは、いかに自分が普段ラクをしていたか、呼吸ひとつ、やりきっていないのかを気付かされることにある。
そしてそれは、自分の意識さえあれば、本気の呼吸はいつどこでもできるのである。できるのに、やっていない。それをやると心が落ち着くし気持ちがいいのに、なぜか普段からやれない。
でも、やろうと思えばできるのだ。一生懸命に呼吸をするということは。呼吸をやりきる。
この考え方を生活全般に応用したらどうだろう。やっぱり普段、疲れや痛みを言い訳にして、僕は自分の人生を生ききっていない。
呼吸をするとき座禅で腹式呼吸をするように、生活のすべてを意識して「やりきる」ようにしたら、それは命を使い切っていることになるのではないか。自分の能力のすべてをこの世に置ききる。使い切る。
そういう生き方ができないか。
(自分の性格上、まぁ、できないだろうな…)
例えば若くして亡くなる作家や詩人、俳優に一種憧れを抱くのは、それはやはり、彼らは「生ききっている」ようにみえるからだ。
自分の命を最後のひとかけらまで燃やし尽くしている。燃やし尽くして何ごとかを表現している。
宮沢賢治は東京時代、法華経の活動に継投する傍ら、原稿用紙にしっちゃかめっちゃかに作品を書き散らして、友人に「原稿用紙の文字が浮き上がって踊り出すように見える。本当にそう見える」と言い、作品で「幻覚が向こうからやってくるときはほんとうに人間の壊れるときだ」と書いた。
正岡子規は脊椎カリエスに侵されながら、病床六尺の中で、死の床にあって、諧謔味のある歌も句も遺していった。子規は36歳、宮沢賢治の享年は37歳だそうな。
苛烈なまでに自身の命を燃やし尽くして生ききったように見える。少なくとも傍目からは。
本人にとっては悔いも心残りもあるだろうし、長生きもしたかったかもしれないし、どちらも望んだ末期ではあるまい。
それでも、臨終のときに、ああ、全部の生命を使い切ったな、自分というものを今世に出し切ったな、とにかく全力で、やってやって、やりまくってやったな…。と思いながら死ぬことは、おそらく、気持ちいいことだと思う。たぶん。
息を吐ききって吸いきるだけの腹式呼吸が気持ちいいみたいに。生ききる人生は気持ちいいはずだ。