明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

随筆『硝子戸の中』(夏目漱石/新潮文庫)読んだり

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画像は『硝子戸の中』。

新潮文庫から出ている夏目漱石の本は、
大体全部読んだと思っていたけど、
これだけは何故か買っておいてずっと本棚に突き刺さったままになっていました。
グサーッ。

以下、
なんだかまとまらない感想とか、
気に入ったところとか、
心に残った部分とか。
書いておきます。

硝子戸の中
というタイトルは、
漱石本人がずっと家の中にいて、

>毎日この硝子戸の中にばかり坐っているので、
>世間の様子はちっともわからない。
>心持ちが悪いから読書もあまりしない。
>私はただ座ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。

>しかし私の頭は時々動く、
>気分も多少は変わる。
>いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起こってくる。・・・

という状況で書かれたエッセイなので、
タイトルもそのままずばり『硝子戸の中』。

漱石の本のタイトルというのは、
なんだかこんな感じで適当…というとアレですが、
ストレートというか芸がないというか、
飾り気が無いながらもその分シンプルで印象深いものが多いです。

新聞の連載小説をお彼岸過ぎまでに終わらせようと思って始めるから『彼岸過迄』とかね。
作中に出てくるシーンやモチーフをさっと掬い取ってそのままタイトルにしているパターンが多い、
ような気がします。

その点『こころ』という小説は例外的で、
上記のようにどこかのシーンに「こころ」という単語が印象的に使われているというわけではないのですが、
それでも作品に通底するテーマであろう「人の心」というものが、
そのままタイトルに使われていて、
これも一種作品の本質を衝いたタイトルであろうと思いますんよ。

まぁ、
その意図は、
作者本人に聞いてみないとわからない点ですが。

●内容は、
家に会いに来た人の話とか、
昔を思い出して話す昔話とか、
日頃考えていることであるとか、
なんだか話題は関連なくあっちこっちへ飛んで行くのですが、
エッセイなので小説より読みやすいです。

●心に残ったところは、

>「死は生よりも尊い
>こういう言葉が近ごろは絶えず私の胸を往来するようになった。
>しかし現在の私は今まのあたりに生きている。
>私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次に遡って、
>百年、二百年、乃至千年万年に馴致された習慣を、
>私一代に解脱することができないので、
>私は依然この生に執着しているのである。

とか。
後年の作家になりますが、
芥川や太宰や三島由紀夫の例を出すまでもなく、
なぜか作家というのは自殺という死に方を選びたがる人種です。

夏目漱石は自殺ではなく病気(胃潰瘍)で死ぬのですが、
それでも他の作家と同じように、
死に生以上の価値を見出している節があるというのは、
新鮮な発見でした。

ではなぜ漱石は他の作家のように自殺を選ばなかったのかと言えば、
いやまぁ、
自殺する前に病気で死んでしまっては自殺もできないですよね。

とはいえ漱石は冷静だというか、
大人というか、
常識人というか、
そこに自分が生きている理由を自らの先祖がいたからだと思案しまして、
普通に生きています。

なんというか、
そのあたりの常識感というか、
地に足のついた感じが漱石らしくていい感じだと、
思います。

●「外からは何でも頭の中に入って来ますが、それが心の中心と折合がつかないのです」
という女性がやってきて漱石と問答をする18段も、
なかなか含蓄に富んでいて面白いです。

長いので引用はしませんが、
興味のある方はこちらからどうぞ。

<青空文庫「硝子戸の中」>
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/760_14940.html

全部読めますよ。
読みづらいけどね。

●最後の段落が、
冒頭の「硝子戸の中」からの描写と対比をなす描写がされていて、
それが素晴らしいと思ったので、
どちらも引用しておきます。

一の冒頭

硝子戸の中から外を見渡すと、
>霜除けをした芭蕉だの、赤い実のなった梅もどきの枝だの、無遠慮に直立する電信柱だのがすぐ眼に着くが、
>その他にこれと云って数え立てるほどの者はほとんど視線に入ってこない。
>書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうして又極めて狭いのである。…


三十九の末尾

>まだ鶯が庭で時々鳴く。
>春風が折々思い出したように九花蘭の葉をうごかしに来る。
>猫が何処かで痛く噛まれた米噛を日に曝して、あたたかそうに眠っている。
>先刻まで庭で護謨風船を上げて騒いでいた子供達は、
>みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。

>家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、
>静かな春の光に包まれながら、
>恍惚(うっとり)とこの稿を書き終わるのである。
>そうした後で、私は一寸肘をまげて、
>この縁側に一眠り眠るつもりである。

…とまぁ、
一の冒頭では寒々しいといえるほど生気のない情景が描写されていたのが、
いつの間にか最後には春のうららかな庭と、
その暖かな日差しの中で居眠りさえする漱石の様子が描かれています。

ほのぼの~って感じで、
この終わり方、
好きです。

終わり。