明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

朝乃山大関昇進。義と正義について

朝乃山が大関に昇進する。

朝乃山が大関昇進、「相撲を愛し力士として正義を全う」と口上
https://www.yomiuri.co.jp/sports/sumo/20200325-OYT1T50105/

>協会の使者が大阪市内の高砂部屋宿舎を訪れて昇進を伝えると、朝乃山関は「大関の名に恥じぬよう、相撲を愛し、力士として正義を全うし、一生懸命努力します」と口上を述べた。

なにかおもしろいことを言わないといけない空気のあるこの口上、朝乃山はとてもストレートな言葉で心意気を述べた。
なんでも「愛と正義」は出身高校の富山商業高校の校訓だとか。
いや、ものすごくまっとうでまじめなことだと思うけど、なんというか、何かが引っ掛かっていた。
だいたい、自分で自分のことを「正義」と言う人って、だいたい正義ではないじゃないですか。

正義について、なんでこんなに引っ掛かるのか、自分のなかで思い至ったことがあるので忘れないように書いておく。
自分の中の言葉の捉え方の感覚を整理して明文化できたことが楽しかった…という話なので、漢字の知識などに誤認があってもご容赦願いたい。

「義」の字義は「我が羊(生贄)を天に捧げる文字」というところから生まれて、転じて「天地神明に恥じぬ(正しい)行い」という意味だそうな。
(『壬生義士伝浅田次郎知識)

ということは「正義」という言葉は、その意味を二重にかさねた二次熟語で、「増加」とか「絵画」みたいな言葉と同じ構造をしている。たぶん、英語の「justice」を和訳するときに明治の人が考えんたんじゃないかなという雰囲気がある。

「正義」という言葉が生まれる以前は、「義」という一文字それ自体にjusticeの意味が含まれていたのだろうけど、それが異なる言葉として扱われている現代、やはり微妙にニュアンスが違うと感じる。

「義」が上述の通り「天地神明に照らして自ら恥じることの無い行い」とするなら、その正否を判断する主体は自身である。
しかし、そこに「正」の字がくっつくと性格が変わってくる。
正悪は自身ではなく客体、客観が決めることだ。
だから自らの口で「正義」を名乗るとやや胡散臭さがつきまとう。自分の口で言う場合は「義」だけでいいのではないかな。

「相撲を愛し、力士の“義”をまっとうし~」なら、違和感はなかったと思う。
正義と声高に言うと、やっぱり外来語というか(いや義だって古くはそうじゃないかというのは一旦おいといて)、justiceの感じがして、イラク戦争時のアメリカ大統領的なものを少し想起させるのかもしれない。
自身が正義だと思っていてもそうではないことがある(正しい義かは客観が判断することなので)から、正義を成すのは難しいし、自分で自分の行いを、客観的にも正しい「正義」と表現するのは独善に陥りやすく危険ではないか。
思いとしては「自分はこれが義であると感じるのでそう行動するが、我が義は本当に正義であろうか?」と自分に疑いを持ちながらやるくらいでちょうどいいのではないかしらん。

他人を評価するときに正義か正義でないか言うのはいいけど、自分の行いを「正義である」というのは、「正悪」の判断は客体が決めるもんだから、言い方として僭越であり不遜でしょう。
自分の行いを自らが言うときは、正の字を外して「義である」と言った方がしっくりくる。

という話。
それだけ堂々と正義を主張するのは他にアンパンマンくらいなので面食らうよね。