立川志の輔の落語を見た
立川志の輔の落語を見た、のです。
それも通常の落語(?)ではなく、志の輔の故郷・富山県で定期的に行われている“富山弁落語”を。
だいたい落語ちゅうもんは標準語、ないし江戸弁で語られる“物語”であって、そこに方言のはいる余地と言えば、せいぜいが上方落語くらいのものだろう。
けれども、明治大学を出てその後落語家を志したこの変わり者の落語家は、さらに変わり者の立川談志という人に師事して、そのせいか、中央・東京ではなく地方、海外、富山での講演を頻繁に行っている。
聴いた演目は新作落語の『バールのようなもの』と、古典落語『宿屋の富』。後者は一般的な標準語で演じられた。
富山で演じるのに落語をふたつやって、ひとつは富山弁、もうひとつは標準語でやるというのは、富山の観客に落語という文化を伝えたい、味わってもらいたい、落語というのは富山弁で、その土地の言葉で演じるととてもその意趣が伝わるということを実践したいという思いとともに、それはそれとして、共通語で、標準語で演じる標準落語をやることで、普通の落語も普通に楽しめるように富山県民を教育するという意味もあるだろう。
さて、その感想だけど、これがとてもおもしろかった。
これまで僕が落語を聞いたのは、高校生のときに文化授業で聴いたのと、高岡イオンのイベントホールで無料で聴いたのと、アニメ『昭和元禄落語心中』で山ちゃんこと山寺宏一(落研出身なので落語家の役を演じるには一応筋が通っている笑)が落語家を演じた際に、早口でダイジェスト的ではありながら『芝浜』を一席まるまるアニメ一話分を費やしてやった回、くらいのものだ。
つまり僕に落語を聞く素養はあまり養われていない。僕は落語通ではない。
その通ではない限りなく一般人に近い僕が素直に聞いて、素直に面白かった。
富山弁落語部分に限って言うと、富山県出身で今は東京に住んでいる僕としては、富山弁の、方言の持つリアリティーというか、方言だからこそ、生まれ育った土地の言葉だからこそ感じる迫真性というか現実感というか、あるいは懐かしさだったり、人間の本音の部分、管状の根底の部分にダイレクトに伝わってくるような感じで、“方言で演じられる落語”というものは、今回は富山弁だったけれど、これは47都道府県分存在してもいいのではないかと思わせられるものだった。
落語は江戸文化、上方落語は関西文化という大まかなくくりはあるだろうけど、これは潜在的に47倍の文化力を持っているよ。
おそらく同じ演目でも、江戸弁(あるいは共通語)で語れるのと、自分の地元の言葉、自分の方言で語られるのでは、その感じ方がまるっきり違う。
やはり自分の生まれ育った土地の言葉で語られる物語は、すっと染み込んできて、プリミティブな感情のやり取りが素直に胸を打つ。
いやつまり、この表現でも「プリミティブな」と格好をつけて言うところを「原始的な感情のやり取り」というようなもので、そっちのほうがわかりやすいしダイレクトに感情を刺激するのだ(じゃあ最初から原始的って言えよ)。
だから、いま落語界に所属して、東京や関西出身でない“変わり者”の落語家がいるなら(そういえば笑点には大月出身の落語家やチャーザー村出身の落語家がいたはずだけど)、東京弁での正調落語のほかに、自身の出身地の方言での落語に是非チャレンジしてほしいと思う。
それは、その土地に住む観客の感情をダイレクトに揺さぶる効能があるし、(正調落語が持つ役割でもある)昔ながらの土着の日本語を保存することにもつながる。
さて志の輔の落語の感想なのだけど、とくに鮮烈だったのは、短編小説をもとにして作り出したという新作落語『バールのようなもの』。
古典落語ではおなじみの物知りのご隠居と、物を知らない八っつぁんの会話で進行していく会話劇。
八っつぁんがご隠居にニュースで目にした“バールのようなもの”の正体を聞く……というところから始まるのだけど
「お前だらんないがか、バールのようなものちゅうたらバールではないが」
「なんでけ、わしゃ大工やから道具箱にバールそのものが2~3本入っとるけど、何か事件あったらすぐ警察に職務質問されて、『なんでおまんちゃバールなか持っとるがよ』言うて呼び止められっぜ。これはつまり犯行に使われるバールのようなものちゃバールやから、警察はそう言うがんないがけ」
「かぁー、おまちゃなんちゅわからんがいのう。おまん考えてみ、“女のような……”言うたら、そいつぁ女か」
「いや、そりゃ“女のような”いうたら“女のような男”やちゃ」
「男やろ。そんでなにかものを食べて“ありゃーうまい! こりゃ肉のような味すんねえ”と言うたら、それ食うとるもんはそりゃ肉か?」
「いや、そりゃ“肉のような味のする、肉ではないもの”やちゃ」
「そやろ。じゃあ“バールのようなもの”ちゅうたら、どうなるがよ」
「そりゃあ、バールじゃない……いやいやいやいや、なーん、バールのようなもの、と言うた場合は、バールになるんがんないがけ」
「かぁー、おまんちゃなんちゅわからんがいのう。バールのようなものは、バールでないが」
「いや、バールのようなものちゅうたら、バールでないがけ」
「なーん、バールのようなものはバールではないが」
「ええ、バールのようなものちゅうたらバールやろがい」
「なーん、バールのようなものはバールではないが」
「バールやろが」
「バールでない」
「バールやろが」
「バールでない」
……とまあ、後半になるにつれて会話のスピードは上がって早口になり、聞いている方は、なんだこれは、全くなんの意味もない会話ではないかという会話が高速度に繰り広げられていくに従って、もうなにか異次元に連れて行かれたかのような、すくなくそもそこに会話の意味性というものは失われて、ただただ、馬鹿な会話をしているという現実だけがあって、ひとつだけであれば鼻で笑うような小さなわらいでも、くぐもった笑いが間断なく生まれることで、笑いが止まらなくなって、涙が出てくるほどおもしろい状態になってしまう。泣いた。
これはいくら文字で説明しても伝わりきらないもので、さらにひょっとすると標準語で聞いてもその面白さの真髄は伝わらず、やはり方言あるいは、常日頃自分で聞いている言語で聞かないと真価はわからないのではないかと思う。
そういうふうに考えると、標準語で全て育ってきた関東の人は、落語が本来持つ魅力を元から100%味わえると思うと羨ましいような、いやいや方言が持つ感情の、感情として伝えられる特別性を味わえないとなると気の毒なような気もするというようなものである。
とにかく立川志の輔は、もっと高く評価されてもいい。