明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

映画『かぐや姫の物語』見た

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見てきました。
感想を簡単に書いておきます。

ネタバレ… というほど、隠すべきネタもある映画ではないのですが
これから見ようと思っていて、ネタバレ嫌だなあと思っていらっしゃる方は
ご了承ください。



★あらすじ

童話『かぐや姫竹取物語)』と一緒です。



…ってだけじゃあちょっとさみしいか。笑。

えーと、竹から生まれた少女が美しく成長し
求婚された男たちに無理難題を言いつけて断ったり
最終的に帝にまで求婚されるんですが「月に帰ります」と言って帰ってしまうというお話。

意外といえばちょっと意外ではあったんですが
ストーリーはこの『竹取物語』に結構忠実に作られています。


★感想


日本画が動いているような映像がすごい!

予告編で公開されていたとおり
筆絵のような独特の絵柄で全編貫かれ
それだけで他のアニメ映画にはない特徴的な雰囲気を生み出しています。

さらに男鹿和雄ジブリの誇る高性能アニメーターたちが実力をいかんなく発揮し
描かれる色合いや美しいシーンがとても印象的でした。
描かれている動画一枚一枚を切り出して絵にしても売れる! かもしません。


●物語のせつなさと地井武男の好演について

かぐや姫』って、童話というか昔話なのに
「めでたし、めでたし」では終わらないアンハッピーエンドの切ないお話だったんですねえ…。
映画もその通り、胸にもやもやとしたせつなさを残して終わります。

予告編を見た限りでは
かぐや姫(のアニメーションする様子)」に萌える映画かと思っていたんですが
実際に見た結果は地井武男に萌える映画」ですねこれは!

正確には地井武男演ずる「竹取の翁」なのですが。

かぐや姫が「月に帰りたくないよう」と言っているのに無理やり帰らされる場面で
涙を流すお爺さんの声と演技が実に胸を打ちますよ…。
さすがちい散歩

そもそも物語(と映画)の冒頭からし

「昔、竹取の翁というものありけり。野山にまじりて竹を取りつつよろづのことに使いけり」

という文章で始まるのですから
実はこの物語はかぐや姫の物語でありながら
この「翁」もほとんど主人公に等しいほど重要な役割を担っているのでした。

その「翁」に地井武男をキャスティングしたのは素晴らしいタイムリーヒットでしたね!

情感豊かに、思い入れたっぷりに演じてくれています。
しかし、すでに亡くなっている人の「新作」を見るというのは
その役者さんがまだ生きているかのように錯覚してしまう、不思議な感覚ですねえ。


●ちょっと引っかかった原作からの改変について

全体の疑問として
「作品のコンセプトというかこれを作った目的ってなんだったの?」というのが
少し見えづらい気がします。

まぁ、まず、このものすごく手間と時間がかかっている作画
(なにしろ制作期間8年、制作費50億)を鑑みて想像するに

「『竹取物語』という“日本の美”が描かれている物語を
. アニメーションに落としこむことで、これまでにない作品ができるだろう!」

という発想が制作の出発点だったのではないかという気がします。
だってそうでないとあんな筆で描いたような主線で
ずっと優しいパステル調というか日本画風の色塗りで…やってられませんもの。

要は
日本画の世界を動かしてみよう、アニメにしてみよう。題材は『竹取物語』だ!」

と、こう考えて作ったのではないかと思いますね。

そうであれば
確かにこの古い物語は題材として最適と思います。
原作にはあまり詳細には描かれていない竹林の様子や
山里に訪れる四季の様子もたっぷりと描かれていて、
日本的美、日本的物語をアニメーションで表現するという試みは成功している
と言っていいと思います。

しかし、なのですが。
仮にそうであればとしたときに、逆に、
「帝」の扱いが雑なのはちょっとどうかと思いますね。

というより、あからさまに言ってしまえば、
監督・高畑勲の古典的左翼思想が物語に入り込んでしまっているのでは…
と勘ぐらずにはおれません。
(この場合の「古典的」というのは特に悪い意味ではなく、むしろ純な、というような意味で)

なぜそう感じるかというと、特にこの
原作の『竹取物語』には特に記述が無く、この映画でわざわざ入れ込んでいる

「貴族的生活、貴族からの求婚、帝を否定して
. 社会の最下層たる放浪の農民生活・自然生活をひたすら支持・指向する…」

という部分。
この絵図・構図から
いかにも東京書籍的というか、60年代学生運動共産主義というものの香りを
感じてしまうからですね…。
最後の方は絵まで『カムイ伝』みたいな雰囲気に…。

でもって、
これが『かぐや姫の物語』とは別個の作品で
監督のそういった主義思想が表現されているのであれば
それは当然、個人の思想と表現のことなので文句をつける気持ちも筋合いも全くありません。

ですが、もしこの映画を
「日本的美、日本的感覚をアニメ映画に落とし込みたい」という心持ちで作ったのであれば
その唐突な60年代的左翼思想は、残念ながらこの映画には場違いであると言わざるをえない。
それは全然別物ですから。

例えば『セロ弾きのゴーシュ』でそういう思想をテーマにするならまだしっくり来ますが。
日本的美を表現しようと考えた『かぐや姫』でそれをやったのだとしたら…それは
いささか食べ合わせが悪いでしょう。
日本的な感覚とは違うものですから。(特に物語成立期にはありえない)

それがちょっと、引っかかるは引っかかりました。


●ちょっと引っかかった原作からの改変について2

あと、これは全然細かいことなのですが、原作の『竹取物語』にあった

かぐや「月に帰っちゃうお詫びに不死の薬置いていきますね…」
帝「かぐやの居らん現世になんぞ未練があろうか。山の頂上で燃やしてしまえ」
→以降、その山を「ふじの山」というようになった。
薬を燃やした煙は、山の頂上から今も立ち上っている…。  
(意訳)

というくだりがカットされてしまっているのはやや物足りないですね。
月という宇宙まで広げて大きくした舞台の遠景に
雄大な富士山、山頂からほそぼそと立ち上がる煙の筋、なんなら白昼に浮かぶ白い月…
というラストカットは、絵にすればなおさら
物語の最後を飾る印象的なシーンになっただろうと思うだけに、残念です。


●まとめ

映像はすごかったです。
多分この映画は、アニメやってる人、作る側の人がみたら一番度肝を抜かれるタイプの映画じゃないかなーと。
別に自分はそういう業界人ではありませんが
使われている技術や手間がすごいというのは、なんとなく、作品のはしばしから感じたり
Twitterでそういう業界人の方がすごく反応しているのを見るとそう思います。

欧米人が童話をアニメにするとディズニーのアレになるところを
日本人が昔話をアニメにしたらこれだけ美しいものができるのだ、という…。
日本の美意識を詰め込んだ映像というのは歴史に残す価値があると思います。

ただ、物語は思った以上にベーシックな『かぐや姫』なのでやや退屈は退屈です。
アニメ『日本昔ばなし』的な雰囲気もありつつ。

イチオシポイントとしては
「最高に手間と時間とお金をかけて作った『アニメで表現される“日本の美”』を見て!」
というところですね。

高畑勲監督の思想的な部分については、単純に見る分については
気にせずに見られるのであれば、気にせずに見た方が得策と思います。
余計なことを申しました。

上映時間が長いので、椅子に縛り付けられてみる映画館で見るのがいいと思います。