明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

『海辺のカフカ』(村上春樹・作/新潮文庫)の感想(『カフカ』=ポン酢白子 論)

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カフカ』に受けた印象を印象のまま何か別のものにたとえるなら

鱈の白子




これは説明しないと意図が伝わらんね。
ええと、「謎のおもしろさ」っていえばいいのか……

おもしろいんですよ。とりあえず。
面白いんだけど、……なんか釈然としない。
ひっかかかる。すっきりしない。例えようのない。

そう!「例えようのない」感じ。
例えようのないものを例えようとするから「鱈の白子」なんてものになっちゃうわけで。

いや、白子もさあ、「おいしいけど、謎のおいしさ」というか「他に例えようのないおいしさ」
じゃない?
飲み込んだ後にえもいわれぬ風味が口の中に残るような。
←この感じが共通。

あらすじとしては、まず軸がふたつあって

① 15才の少年、田村カフカ(仮名)が家出をし、旅に出て、出会いや経験を積むことで日常に帰る、日常を耐える強さを得るまでの成長を描く
② ウナギが好きなナカタさんが、猫と話したり中日ファンのホシノ青年と四国に行ったり石をひっくり返したりする話。

この二つのストーリーが、交錯するようなしないような互いに影響しあってるようなしてないような互いに何かのメタファーであるようなないような。
そんな感じの話です。


表面だけを見ればよくある「少年成長青春ストーリー」と「老人と若者の心の交流」が
テーマになってるわかりやすい話のように見えるけど、やっぱりそれだけじゃない。

その、わかりやすい部分以外を考えると……
うはあ、釈然としない。
ええーっと、この釈然としない感がどこから発生するものか説明すると、
まず、ストーリー中に「謎」が次々と現れるんですよ。
それは米軍資料のインタビュー形式で語られることだったり、
不意に登場するジョニー・ウォーカーだったり、童話風に語られる『カラスという少年』だったり。
あるいは返り血を浴びてるはずの人物が全く浴びていなかったり、空から降ってくる魚だったり。
それの解明を予測・予想して楽しむ喜びはあるんだけれど、結局それが作中で行われることはない。
ほったらかし。あるいは
投げっぱなし。いわゆる
投げっぱなしジャーマン。


消化不良!

(「投げっぱなしジャーマン」がわからない人はそのままGoogleで検索かければ動画付きの良いのが一番上に出ます)


そして作中の会話でしつこいほどに出てくる「メタファー」という単語。
なんとなく意味はわかる横文字言葉だけど、正しい意味を調べたところによると
メタファー→隠喩→隠喩法→

① ある物を別のものに例える語法一般。
② 修辞法の――。例えを用いながら、表現面にはその方式(「如し」「ようだ」等)を出さない方法。白髪を生じたことを「頭に霜を置く」という類。暗喩法。←→直喩法。
③ 修辞法の――。複数のものを内的・外的属性の類似によって同一化する技法←→換喩法。

ってこと。
ううむ。

よくわからん!

そこをなんとかわかったつもりで話を進める。
つまりそのつぎつぎと登場するよくわからねー単語や人物や展開<謎>は、
作者の別の言いたいことや意思や何か大事なことを表す暗喩――<メタファー>なんじゃないか?
と思って見るようになるわけです。
作中に「メタファー」「メタファー」と繰り返すことで。
作中の登場人物の会話で、読書の視点、方法を能動的に変えさせられる。
それはまるで作者に魔法をかけられているような感覚にもなる。

大島さん(登場人物。図書館職員で性同一性障害でゲイ)によれば

「世界はメタファーだ、田村カフカくん」

ということだそうです。

このように印象深い場面や、会話の中に何度も<メタファー>という単語を使うことで
「メタファー」と言う言葉・概念はこの物語内で重要な意味を持つのだ!
読者に印象付けているわけだ。と思う。


それでも「○○って展開・人物は××のメタファーですよー」と作中で語られる・説明されることは無い。
そりゃそうだ。とも思う。
「それは言わぬが花」
って昔の偉い人(世阿弥)も言っていることだし。

でもやっぱり消化不良だ、とも思う。

直喩を口に入れて味わうことだとすれば、暗喩は匂いを嗅がせるだけ。
読者はそこに匂う・その裏にある「なにか」を推測して楽しむ。

アメリカ人は「手品」を「magic」と呼んで、「すごい!なんでこうなるんだ?グレートだ!」
ってタネや仕掛けを考えずに、
「現実では起こりがたい現象が目の前で起こっているときに感じる感動」
を大事にするらしい。

この作品が海外でウケているのはそういう理由からかな?と思う。
実際そういう視点で見れば、この作品には「よくわからない素敵なもの」があふれているのだ。
(なにかの暗喩?そもそも本当に何かの暗喩なのかどうかも怪しい)

日本人は「タネ」や「この表現・人物は○○の暗喩・メタファーだ!」って言いたくなる。
そう思って(「これは○○の暗喩だろう!その証拠になりえる一文を探そう!」と思って)
読むと、混乱に混乱を重ねるだけかもね。
これは文部省の国語教育の失敗と言って良いんじゃなかろうか。
「設問・○○が××を~~した理由となる一文を抜き出せ」
みたいな問題ばっかりだもんね。それをざっと10年間続けて育ってきたわけだもの。

いやー今日は鱈の白子から始まって文部省批判まで幅広いなー。

これ(カフカ)はひょっとして『海がめのスープ』なのかな?とも思う。

           <ウミガメのスープ

ある男が、とある海の見えるレストランで「ウミガメのスープ」を注文しました。
しかし、彼はその「ウミガメのスープ」を一口飲んだところで止め、シェフを呼びました。
「すみません。これは本当にウミガメのスープですか?」
「はい・・・ ウミガメのスープに間違いございません。」
男は勘定を済ませ、帰宅した後、自殺をしました。


男が自殺をしたのは何故?
っていう。

どのような答えを出しても、文中にそれを裏付けるような部分はなくて、
むしろ想像力とそれにどう論理をこじつけ…論理を組み立てる能力を求める問題。

ウミガメのスープ』で検索すれば「正式解答」なんてものが出回ってはいるけど、
あんな、問題文中(この場合それは前提であり土台であり世界全体)にそれを証明するものがないものを「正式解答」なんて呼べるか!それは単なる想像だろうが!!

と怒りに近い感情を覚えますですはい。
つまり「解なし」が正解。とも思う。
「正式回答」はユニークなものではあるけどね。
上の文だけからその答えを導き出すのはアクロバティック過ぎるだろうと思う。


話がずれた。
つまり作中の(何かの暗喩のような)<謎>を
「これはなんだ?」「どういう意味だ?」「何かの暗喩なのか?」と探るところに面白みがあって、
それをブンガクシャのひとは「奥深い」なんて言うのかな?と思う。



それを思うと『エヴァンゲリオン』もそれに近いものがあるね。
さんざん出てくるあるいはSF的あるいは物語上の<謎>。
そして全部投げっぱなしジャーマン。
そしてそれを検証したがる視聴者たち。
起こるブーム。
主人公も同じ(悩める)15歳だしね。

それにしてもここで『エヴァ』を引き合いに出すあたりがいまひとつAkiba系から抜け出せてないアラワレでそこはかとなく切ない感じがしないでもないですね。




まあ、特に抜け出す気もないっちゃあない。


閑話休題
個人的な感覚なんだけど、この作品にいわゆる「文学」
(この「文学」という言葉の定義については、暇なときに考えること倉庫のなかの随分長い間の懸案事項だった。そもそもこの言葉自体が「literature」の訳語で輸入された概念じゃないか、何が「文学」で何が「文学じゃない」のかはっきりしないのもその辺に理由があるんじゃないの?と思ってた。「文学部」に所属しながら、その「文学」についての自分の中で納得できる定義すらあやふやだったわけで、我ながらあまり良い状況ではないなと思ってた/唐突に本題に戻る)
「文学」って呼ばれるものと同じにおいを感じた。
特に表面的には――一応の話の筋は――わかるけど、本質的には――作者の意図したところは――「よくわかんねー」って感じが。

んで、その「よくわかんねー」って感じがどこから来るのか、と言ったらこの小説の
「はっきりしない表現・人物・展開」
に原因があるのであって
(それでありながら作中では「必然性」について語られ、それらが無意味なただの賑やかしでないということが(暗に)語られる。語られてる、んだと思う。「この作品の意味不明な人物や展開やなんかは暗喩でも何でもなくてただの思い付きの積み重ねじゃないの?」という批判に対する予防、だと思うのです)
とどのつまりそれは
「暗喩」だ。
(ただ「○○は××の暗喩だ」と明言できない――それがある意味、暗喩の本質なので――正確には「暗喩と思われるもの」なんだけど、まああんまり詳しくやるとただでさえ進まない話がさらに進まなくなるのでよす)

その「暗喩」が「奥深さ」らしきものを生み、暗喩と明喩のバランスをとるときに
「暗喩」(「奥深さ」と呼ばれることが多いもの)が多ければいわゆる「文学」寄りになるし、
「明喩」が多いものは「文学」とは呼ばれない、エンターテイメント寄りになるんじゃあなかろうかと思うわけですよ奥さん!
奥さん?

前に現代小説を「ジェットコースターみたいな小説」って言ったけど、やっぱりそれは文学とは言えない……と感じる。
そもそも、なんとか「学」なんてつくものがわかりやすいわけがないんだ。




「文学」とは「暗喩」(そしてそれがうまく料理されて、小説世界に破綻をきたすことなく、奥行きを持つに至った作品)だ!

次にこれに反証する感情を覚えるまで、「『文学』の定義」については、
平成18年2月の時点、20歳と一ヵ月半の時点では、自分の中で、
そのようにしておこうかと思うのです。

というか、ようやく世間で言われる「『文学』の定義」について理解ができた。
というくらいなのかとも思う。


いつも手なりで書いてるこの『最新情報』だけど、今日のはまた…長いね。
カフカ』から自分の中の「『文学』の定義」にまで話が及んじゃったよ。
たまには文学部の大学生らしい話もするべきなのだ(両親(と書いてパトロンと読む)を安心させるためにも/昨日アリエナイ飲みスケジュールを惜しげもなく公開したところだし)。
これで5ヵ年計画も大丈夫。だろうか。
とりあえず当初の目的だった『カフカ』の感想についてまとめておこーう。

海辺のカフカ』感想・まとめ

・ 「謎」が楽しい
・ これはあれの暗喩?違う?なんて考えることが楽しい
・ というか考えっぱなし
・ そして投げっぱなしジャーマン
・ たまーにでる春樹ジョークが楽しい(マツダのレンタカーとか/詳しくは読めばわかる)。
・ ひょっとして「文学」ってこの「暗喩」を探る・探れるもののことを言う?
・ とすればこれは「現代文学」と呼ぶに十分値する小説
・ うなぎは特にいいものです。
・ 上から読んでもカフカ
・ 下から読んでもカフカ
・ 鱈の白子もおいしいよ


……途中からやけに混乱してるね。まとまってないし。
まあいいや。(投げっぱなし)



あなたが『海辺のカフカ』を読んだ時、きっとここまで読んだのと似た感情を覚えるだろう。
つまり

「よくわからん」