明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

『日の名残り』(カズオ・イシグロ作 土屋政雄訳)感想

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日の名残り』(カズオ・イシグロ作 土屋政雄訳)がめっちゃ面白かったという話。

時代は1954年。
舞台はイギリス。
主人公は執事。
俗に言うスチュワート。
俗には言わないか……。

執事にとって重要なこととは「品格」を手に入れることであり、
「品格」を手にするには優れた主の元で働くことが必要であり、
職業上の責務を遂行することだけが「品格」を手に入れるための方法だとして、
そのことだけを人生の目標に据えて生きてきた男。

その主人公スティーブンス(名前からしてすでに執事っぽい)が、
新しい主人に許され、
主人のいない間に自動車でのイギリス旅行をして、
イギリスの田舎(カントリー)各地を旅しながら人生を振り返り、
自分の人生観についての考察と人生の反芻をするってなストーリー。

本文はスティーブンスの旅行日記風に描かれ、
屋敷生活の描写は前世紀のイギリスの貴族生活を思い浮かばせるし、
イギリス農村の豊かな自然と生活者たちが生き生きと描写されている。
もちろんスティーブンスの考えとか内心とかも書かれるしね。

繰り返し語られる
「執事にとって――自分にとって――大切なものは『品格』ただこれだけである」
という信念と語り口から想起させられるスティーブンスの人物像は独特で新鮮であり、
まさに執事口調で丁寧に語られる出来事や風景は読んでいて気持ちがいい。

猫が「吾輩は猫である。名前はまだない」と横柄に語るんだったら、
ティーブンスは
「憚りながら、私はダーリントン卿の執事を勤めております、スティーブンスと申します」
っていう腰の低さね!
徹頭徹尾、謙虚かつ丁寧かつ慇懃に語るスティーブンス。
やべぇ執事ほしぃ。

旅行には「慰労」の他にもう一つ目的があって、
(なければスティーブンスは旅行なんぞ出かけなかっただろう)
その目的とは……リクルート
というか、再雇用。
目下人手不足が悩みのこのお屋敷の問題を解消すべく、
以前の同僚で女中頭だったミス・ケントンに、仕事に戻ってこられるかたずねよう、という目的。

最初は本当に「職務上の理由で」ミス・ケントンに再就職の誘いをしにいくんだ!
と書かれているんだけれども、
途中からだんだん回想で過去の出来事が描かれて、
二人の微妙な関係性が明らかになっていく。

っていう過程とかもうね。

絶妙すぎるね。

いや俺が書くと本当に陳腐な筋書きに見えて全くもって申し訳なさすぎるんだけれども、
物語には「ケレン味がない男女の関係性」っていうのが本当に少なくてね。
好き。
いや全部読み終わってしまえば全然あるのかもしれないけど>ケレン味
でもとにかく読んでる最中には感じさせないっていうのは素晴らしいですよ。
(読んでる人が鈍感なだけっていう説もある)

ケレン味…俗受けを狙ったあざとい展開。ハッタリ。




「一流貴族の執事」といういわば「裏方」の主人公に当時の情勢(主人の主張、意見)を語らせ、
その主人の主張がどう受け止められ、国際社会にどう影響を与え、
更に時代が流れて主人は社会からどう受け止められるようになるのか、
なんて社会小説…というか、舞台が古いそしてさらに回想の話だから、歴史小説か。
歴史小説の味がするところもあったりして、
これはもうウマウマ。

文そのものには奇をてらったような巧みな表現も文学的暗喩もないんだけれども、
エンディングまでにはスティーブンスの人間も人生哲学も、
イギリス貴族の政治思想も田園風景も描かれるし、
彼の人生に於いての勝利も十分印象的に描かれるし、
ドラマティックなすれ違いやら対立やらエピソードやらも描かれて、
ラストシーンのスティーブンスが夕暮れの中で悟る過ちやらもう素敵すぎてなんと言っていいやら。

全部乗せなんですよ。
しかもケレン味を感じさせない。
このケレン味のなさはスティーブンスの性格に拠る所が大きいのではないかと漠然と思う。
一貫した丁寧な喋り口調ですらすら読めてしまう。
翻訳作品なのに。
ユーモアも秀逸でついつい笑ってしまうし、
自分の信念(「品格」を手に入れるために徹底的に滅私)を追求する生き様は侍の様で感動的だし、
新しい主人(アメリカ人)の性格も軽くて素敵だし(でもちょっとしか出てこない)、
ミス・ケントンとのやりとりではケントンさんとスティーブンスのどっちの心理もよくわかるしで、
ニヤニヤとやきもきが交互に襲ってきたりするし、
後半はもう一気読みしてしまったのだった。
もったいない。


読み終わったあとの感動でごちゃごちゃして感想がまとまらない頭の中を、
無計画に書き出してみることによって整理してみたらどうだろうかという発想で、
赴くままに感想を書き出してみたけれど、
ちっとも整理されなかったというのは、
この試みが失敗に終わったのだということを言わざるをえない。
ココア会議がいい。

ひと言でいえば
「ひとりの人間の人生と人生観を見事に描きながら、その人生観と自分、社会、他人との対立やら葛藤やらがきちんと描かれていて、文学とドラマの両立がなされているところが素晴らしい」
って所だろうかね。
ひと言にしちゃあ長いかね。

上で言うところの文学=人間、人生を描くもの。
ドラマ=対立、葛藤、(劇的な)変化、エンタテイメント性。
ぐらいの意味でね。



あと『日の名残り』ってタイトルも素晴らしい。
過去には大貴族の大屋敷で「品格ある」立派な執事として働いていた主人公も、
今では屋敷ともども新興アメリカ人の手に渡ってしまっている。
もう社交や国際会議にに使うこともないから屋敷も半分は閉鎖してしまった。
国際社会のなかでは「古きよきイギリス」や「騎士道精神」なんてものは失われつつある。
過去の淡い感情も余韻だけを残して今はもう昔には戻れない。
ただ目の前には沈んでいく夕日だけがあるのだ。
っていうラストシーンとも同心円状に関わっている。素晴らしい。そして美しい。

そんでラストはきちんと前向きになるしね!


それにしても、スティーブンスの「ジョーク」への考察は毎回爆笑ものだった。

まぁここまで感想を勢いだけで書き連ねてきたんだけれども、
本の感想なんてものは読後の勢いだけで書くものだということに、
もう読書感想文が宿題に出されない大学に入ってから気づきましたね。

むしろ苦手だったんですよ。読書感想文。
今思えばあんなの適当なことだけ書いて
「これが俺の素直な感想ですが、何か」
って言っとけばよかった。

というか本来限りなく自由であるべき「作文」を
「絶対この量は書きなさい!この内容で書きなさい!」
と言って強要させるあの方式はまったくもって見当違いだったといわざるを得ない。

教師との会話は大体こんな感じだった
「感想書けばイイのよ」
「おもしろかった」
「どこが?具体的に書いて」
「ぜんぶ」
「それじゃダメよ。どこが面白かったかきちんと書くのよ」
「でもぜんぶおもしろかったんだもん」
「だから全部のうちどこが面白かったのか、きちんと書いてみなさい(このあたりでガンギレ)!」
それで結局
「○○ページの○○という人の「○○○……」というセリフがおもしろかったです。あと○○ページの○○という人の…」
という、
『面白い部分を箇条書きで書き出し、原稿用紙を埋めるだけ』
という創造的でもなんでもない読書感想文を出したことがある。
楽しくもなんともなかった。
ほぼトラウマと言っていい。
今思うと宿題出さないぐらいでなんであそこまで怒られたのか謎だ。
特に女の先生。

自由研究も苦手だった。
自由て。
自由なのに研究て。
自由は自由なのだけれどもそこに「研究」がつくことによってそれは全然自由じゃないですよね?
そんで俺が『一年は一体何秒なのか』という自由すぎるテーマで研究をして提出したら
「計算しただけじゃないですか、もっとちゃんとやりなさい」
みたいなことが書かれて帰ってくるんだから、
『自由研究』というものには重大な矛盾が内包されていると言っていい。
「自由」に対して「ちゃんとやれ」って何なんだよ。

ちなみに上の答えを出す計算式は
60×60×24×365
この計算で「一年は何秒なのか?」という壮大な疑問が解決される。
答えはもう知らない。

小学生のときの話ですよ?今ならもう少しちゃんとやりますって。
今思うとアレは「好きなことをやりなさい」と表面上では言いながら実際は
「国語数学理科社会、とにかく学校で教えることの範囲内で役に立つ『勉強』をしなさい」
って言っているのであって、
子供心にその社会の要求する大いなる欺瞞に気がついていたからこそ嫌いだったのだ。
……うんまぁ、嘘だけど。

だいたい小中高と「夏休みの宿題」なんてまともに出した記憶がないな今思うと。
ひどいな我ながら。


話が大幅にずれた。
いやまぁ半分意図的にずらしたんだけど。

日の名残り』ね。
面白いっすよ。
舞台が古い割に意外と最近(89'年)の作品だったし。
タイトルと表紙が堅そうに見えるところも、逆に効いてるんかもしれん。
作者が日本人なのに(五歳で移住)、
原作は英語で書かれていて、
日本語で読めるのは翻訳された作品だっていうのが不思議と言うかなんというか。


よし、もう寝る。