明日はもうすこしマシにします

日記のブログです。ヤフーブログから引っ越したので過去記事には不具合があるかも(2019年10月)。見たり読んだりししたものや考えたりしたことを忘れないうちにメモっておこうというもの。ヤクルトファン。

『夜は短し歩けよ乙女』(森見登美彦/角川文庫)

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を読みました。
画像はハードカバー版のもの。

アジカンのジャケットイラストでおなじみ(?)の、
中村佑介さんが表紙イラストを描いています。

いまノイタミナで放映中のアニメ『四畳半神話大系』と、
同じようなキャラクターと同じような舞台で展開される同じような話…と書くと何だかアレですが、
まあところどころ違います。

いつも通りまとまらない感想をざっと書いていきますよ。

●面白い! 

これにつきます。

何年か前に誰かから(冨田だったかな?)、
「『夜は短し歩けよ乙女』っていう小説面白いよ」
とオススメされ、
「えー? 『夜のピクニック』(当時小ブームだった)みたいな話でしょ?」
と勘違いしていたワタクシはアッサリ読むことを拒否してしまっていたのでした。

もったいないことをした。

物語は主人公である男「私」と、
「私」が「黒髪の乙女」と呼び恋焦がれる女性の一人称視点でそれぞれ進んでいき、
なんだか奇想天外なエピソードを重ねながら、
ひたすら主人公の独白が続いていくという奇妙奇天烈な小説です。

この森見登美彦という作家の作家性はどういうものかと尋ねられれば、
「主人公の自意識過剰な独白」と、
それにともなう「一人称視点の語り口の面白さ」に尽きます。

それは処女作『太陽の塔』から見られる特徴ですし、
四畳半神話大系』では十分芸の域に達せられているし、
この作家最大の売りだと思われます。

(しかし一人称にこだわるときには、客観や冷静な第三者視点というのが失われるから、
それではやはり(文学)小説の持つ社会性や社会問題を提起するという機能は失われざるを得ず、
「社会性の欠如」というのが森見作品の欠点であると指摘されるかもしれない。
けれどその反論として、
「社会の問題とは個人の問題である」ともいえる。
貧困であれ環境であれ歴史であれ性差であれ、叫ばれる社会問題が帰結するのは個人である。
であるならば個人が描ければその個人を通して社会問題を描き社会性を獲得することは可能なはずであるのではないかというきもち/やや投げやり)

京都の大学生を主人公とした延々と続く自意識の吐露は、
本来男汁にまみれたとても読めるものではないはずのものなのに、
それを知性と教養と理性と機智とユーモアでもって、
素晴らしい小説に仕立て上げています。

「小説とは文体である」。
とは、読売新聞に掲載されていたこの作者の言ですが、
この作者の小説を読むとなるほどその通りかもしれないと思わせられます。

「恥を知れ! しかるのち死ね!」

「諸君、異論はあるか? あればことごとく却下だ!!」

など全編を貫く“森見節”は切れ味鋭く小気味よく、
読者を楽しませながら物語を進めてくれます。

…まぁ、
物語なんてあってないようなもの、といいますか、
ストーリーが弱いかな、という気は少ししますが、
それでも全然不満足を感じさせないのは、
前述の「小説とは文体」というとおり特徴的で魅力的な文体のおかげであろうと思います。

あの、
小説のどれでも読んでいただければ、
僕が森見作品をこれほど強烈に好む理由が分かっていただける気がします。

つまりなんというか、
一言で言えば、
「理屈っぽい」!

しかもくだらないことに対して非常にぐだぐだあれやこれやと理由づけ、
理屈付けをして一人悦に入っている…という、
非常に親近感の湧く主人公であります。

理屈っぽくてユーモラスな、
どことなく夏目漱石を思い起こさせる主人公というか文体です。

●映画化したらいいのに
四畳半神話大系』と同じキャラデザのアニメーション映画でもいいけど、実写でも。
特に大学の学園祭を舞台として、
奇想天外で奇妙奇天烈なエピソードが展開され、
最終的に「ご都合主義者の神様」が大団円のうちに幕を下ろす、
第三章「御都合主義者かく語りき」が向いていると思います。

学園祭というのは、
うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』や『69 -sixty nine-』や、
リンダリンダリンダ』のように、
青春映画になりやすい題材でありますから。

実写だったら、主人公の男は松山ケンイチ(ちょっと年かさか…?)で、
「黒髪の乙女」こと後輩ちゃんはずばりオードリー・ヘップバーンだ!!
実現不可能!



●文庫版解説イラスト
を『3月のライオン』や『ハチミツとクローバー』の羽海野チカを見開きのイラストで描いていて、
それもステキです。
羽貫さんかわゆす。

でも師匠がイケメンすぎるw
http://www.amazon.co.jp/dp/404387801X
(文庫版)

羽海野チカがそのまま漫画化しちゃえばいいのに。
と思ったら他の人がすでに漫画化しているみたい。

「乙女」さんが萌え絵風味。
http://www.amazon.co.jp/dp/4047150290
(漫画版)


●「黒髪の乙女」の造形

四畳半神話大系』では「明石さん」と名前もつけられて登場するヒロインこと「黒髪の乙女」。
ショートボブというかオカッパのように短く切りそろえられた黒髪を揺らし、
好奇心にいざなわれるがままに「オモチロイ事」を探し歩きまわり、
女子大生のくせに恋愛事にはさほど関心が無く、
古本市を一日中歩きまわるような本好きで欲しい本に出会うと「ああん」と切ない声を漏らし、
年上の男性の与太話を簡単に信じるくらい無垢であり素直であり、
そのまま多少胸を揉まれても気にしないくらい性や男女のアレコレには無頓着で純真で清純で、
明るい酒好きでザルをこすように酒には強く、
緋鯉の巨大なぬいぐるみを背負いダルマの首飾りをして大学構内を闊歩しても恥ずかしいと思わない!

こんな女がいるかッッッ!!!

と叫びたくなるようなキャラクター作りではあるのですが、
でも可愛いです。
というか好きです。

(上でオードリーヘップバーンの名前を挙げたのは、
 『ローマの休日』のアン王女のイメージと普通の日本芸能人には不可能だと思うからです)
(あっ若いころの仲間さんがショートカットにしたらいけるかもしれない)
(結局実現不可能か/笑)


「こんな女がいるわけない!」

と断じながらも、その後に

「でもどこかにいてほしい…」

と(切に)願う男性読者の理想像を見事に物語上に作り上げ、
ハッピーエンドにもっていくので、
そりゃもうねぇ、嬉しいですよね。
そういった意味では少年マンガのラブコメ的でもある。

漫画『鈴木先生』の小川蘇美にも見られる、
「『黒髪の乙女』信仰」とも呼べるようなこの現象というか設定というかキャラクター造形は、
いったい何を祖にするのであろうか。

知ったこっちゃない。


●主人公は「草食系男子」か?

主人公は「彼女との関係の外堀を埋める」ことに苦心惨憺する大学生で、
もってまわったまわりくどいやり方で彼女と仲良くなろうとする。

決して彼女に直接話しかけたり、
デートに誘ったり携帯電話の番号やメールアドレスを聞いたりしない。
脳内会議では「寂しさを埋めたいだけ」や、
「性欲の対象とするための恋愛」を厳しく断ずる。

これはいわゆる「恋愛に積極的ではない男子=草食系男子」と呼ばれうる人物像である。

しかし、
決して彼女に興味が無いわけではなくて、
むしろ心中では恋の炎に身を焦がしている。
自らの情熱が無垢で神格化されたともいえるような彼女を傷つけ、汚すことを恐れているのだ。
(もちろん自分が拒否される恐怖に持怯えている)

「悶々」という漢字は門構えの中に心を捉えられている様子を描いています。
胸の内で心がうごめいているのです。
この主人公は全編そんな感じです。

一見運動が無いように見えても、
心の中では満身の力が込められてありとあらゆる感情がうねりうごめき身をよじらせているのだ。
それを積極的に表に出さないことで「草食系」と評されるのは、
違う気がしますね。

(アマゾンのレビューでは「バンカラ」という単語が使われていたりしました)
(なるほど言われてみれば昭和的硬派の心情に近いものがあるのかもしれないと思えなくもない)


●まとめ

全然まとめる気ないですけどね実は。
もう眠いので寝なければなるまい。

断然面白い! というか好きです!

理屈っぽい「私」も、この世には存在しないであろうと断言できるような「黒髪の乙女」さんも!
京都に行きたくなる…というか、
京大に入って下賀茂幽水荘に下宿して、バラ色のキャンパスライフを送りたくなる小説です。

まぁ無理なんですが。

森見作品はたくさんあるけど最近の(文庫になっていない)ものは全然読めていません。
まずは文庫になっているものから読んでみたい。